最近、日本の将来を議論していて、どうにも話の合わないと感じることが多いのです。量的に見れば、僕の考え方が少数派であり異端なのでしょう。しかし、日本の持続性を考えると、どうしても多数派に迎合することができません。
このブログでは、100年後の将来を考えること、その先鞭として、さしあたりは20年間を見越してみようと考えています。ところが、その基盤部分で見解が共有できない、つまり、価値観が異なるということを数多く体験しています。
さっき、図書室でたまたま手に取った本を読んでいて、その価値観のズレが構造的であることを表している記述を目にしました。前後の文脈を紹介せずに抜き出しましたが、この部分だけを読んでどのようにお感じになるのかが興味深いところです。
三浦展「団塊世代を総括する」(牧野出版;2005年)22~23ページ
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(略)自動車やエレクトロニクスを売って、儲けた金で食糧を輸入したほうが安い。そういう仕組みに今の日本はなっている。
だから、地方でも、農業をするより、土地を売ったり貸したりして大企業の工場やショッピングセンターを誘致した方が得だという価値観が、特にこの20年ほどの間に日本中に広がった。
しかしそれは本当にわれわれが豊かになったことを示すのだろうか。
その豊かさは、裏を返せば、その土地に固有の、伝統的な生活様式が崩れた、あるいは薄まったということを意味する。地方らしい、そして日本らしい暮らし方が薄まっていき、そのかわり全国均一の消費生活が広まったのである。
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共感する方、バカバカしいとお感じになる方、伝統に固執していては進歩がないと考える方、何も感じない方など、様々いらっしゃることと思います。個人的には、少なくともこの文には話が通じない根本原因がズバリと書かれていると感じました。
戦後~高度経済成長期に始まる消費、経済価値優先、大規模化という20世紀的価値観の台頭、それを決定づけた直近の20年間。このように「自動車やエレクトロニクスを売って、儲けた金で食糧を輸入」するような生活が長く続くわけがありません。せいぜい、あと数年~十数年といったところでしょう。
ところが、大半の日本人は、これに類する価値観を当然のこと、大前提として無意識に受け入れているのではないでしょうか。生存基盤やアイデンティティが危ういにもかかわらず、何の疑問もなく生きているということが実際のところだと思います。
ところで、この本のタイトルにもなっているとおり、価値観の構造的なズレが始まったのは団塊世代に端を発すると考えているところです。この世代を20世紀的価値観の尖兵として今の日本を見ていくと、かなり興味深いものがありますね。
引き続き考えてみたいと思います。