人間が思いつくことは、たかが知れているのでしょう。そもそも、漫然と考えたり感じたりするだけでは、「たかが知れている」のレベルを突破できないのかもしれません。
盲目の人がいたとしましょう。そして、歩行を手伝うガイドさんもいます。歩き出すための物理的な準備は既にできていても、足を1歩ずつ出し続けなければ前に進めません。つまり、歩こうとする意思が必要なわけです。
人々の興味が「今日のご飯は何にしよう?」程度のものだったとしましょう。感動的な話を聞いても、数分後には語り手の真ん前で居眠りをしてしまうかもしれません。
人間が「たかが知れている」で終わらないためには、歩行ガイドや語り手のような、外部の助けが必要なのではないかと思うことがあります。それは人格のある存在だけではなく、自然現象のようなものなのかもしれません。そして、その助けを活かすには、やはり考え続け、感じ続けていかなければならないのだと思います。もっとも、時には一般的な思考や感受性とは根本的に異なるアプローチ方法がいるのかもしれませんが・・・。
地球のリズムや宇宙のリズムを知ろうとする時、脳で考えながら感覚をガイドにすれば、情報を統合してリズムに感応していくことができるのかもしれないと思います。
現代人に対して、真に知らなければならない情報は既に投げかけられており、それを知るための助けも存在しているのかもしれません。しかし多くの場合、それを知らないから安穏としていられるのでしょう。いえ、知ろうとしないから安穏としていられると言った方が正確です。
最近、正体のはっきりしない焦燥感にとらわれるようになりました。個人的な焦りならそれでよいのですが、何か重大なことが起こるのかもしれません。同時に、このトンネルの先には新しい光が存在するという感覚も持っています。