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自給十箇条<chapter2中間まとめ>
 chapter2の中間まとめとして、これまでの自給的生活でわかったことや感じたことをまとめておきます。

■生存の大命題「環境容量の中で生きる」
 これは常々言わせていただいていることであり、個人や世帯の生き方のみならず、地球上に生きる全人類に共通するルールです。
 環境容量の中で生きることは、太陽エネルギーをベースとした様々な成長量と言い換えることができます。例えば、動植物が1年で成長する分を1年かけて消費すると表現するとわかりやすいと思います。収奪しすぎないように、持続的な暮らしの設計が必要になります。
 さらに、資源の消費や収奪について考えるだけではなく、それをどのように使うのかについても熟考を要します。今の暮らしぶりを見直さずにインプットだけを考えていてもいけないということです。このまま人口が増えれば、地球の環境容量はすぐに上限に達してしまうでしょう。そうならないように、環境容量を絶対的な上限に据えて、多少不便になっても無駄や浪費のない生活を再構築することも必要になります。
限界を認識する
あなたは生活レベルの低下に耐えられますか?
新しいモノサシ 「地球を壊すか・壊さないか」
経済学者・人口学者のロジック

■1家族に必要な面積は3~4ha?
 理論値ですが、5人家族が持続的に生活するために必要な面積は、農地0.15ha、林地3.25ha。合計すると3.4haの土地が必要ということになります。ただしこれは、華美で浪費的な暮らしに基づくものではなく、最小限の生活を送るために必要な資源量を前提としたものです。
 我が家が使用・管理している敷地は全部で約3haあり、だいたいこの数値に当てはまります。農地は十分すぎるくらいあって管理が大変なのですが、燃料を採るための山林がやや少ないかなという気がしています。
日本は1億人を養えるか?(その1)
日本は1億人を養えるか?(その2)
日本は1億人を養えるか?(その3)
18立方メートル/36本

■備えあれば憂いなし/自給は1日にして成らず
 自給生活の基本です。土地があること(所有ではなく利用する余地があること)、それを使える状態に手入れしてあること、そこから得られる資源が確保できていることなどが自給の備えになります。これは、必ずしもお金で買えるものではないということから、事前の準備やそれなりの手入れが必要になります。逆に、これらが備わっていない場合、様々な面で歪みが生じてくると思います。
 この備えは、一朝一夕にできるものではありません。薪を例に取ると、秋に木を伐り、冬を越して春になって割り、夏の間は寝かせて冬が来たら使うことができます。次の年のことを考えた段取りと作業が必要になります。
 異常気象があった場合なども、さらにこのことを強く感じます。今年の冬は少雪だったため、山に水が少なく、たちまち今年の作況に影響しています。
間伐 山の手入れと燃料生産
環境の連鎖 暖冬のツケは夏にやってくる?
備えあれば憂いなし

■資源を最大限に活用する手入れが不可欠
 約3haという我が家の管理エリアは、実は相対的な生長量がかなり多いです。それでも、現状では十分な自給資源を確保できてはいません。その原因は、面積の大小にあるのではなく、生長量を効率よく使うことができていない点にあります。
 例えば、3haの大半の生長量が野の草に回ってしまってはいけません。野菜や燃料用材に集中して使われるように手をかけることが必要です。その手入れを怠ると、せっかくの資源も宝の持ち腐れと化してしまいます。
捨てられた農地、取り残された集落

■手入れのために2~3時間/日・人が必要
 手入れを行うためには、ある程度の手間と時間がかかります。イニシャル人役は除外して、ランイング人役のみを試算すると、最低でも2~3時間/日・人の労力が必要となります。これは平均値ですので、農繁期、燃料用材の伐採、薪づくりなどのシーズンには、さらに手間がかかることになりますし、逆に生長量が低くなる(ほとんど0になる)冬季はそれほどの人役を必要としません。
早朝チェーンソー
イニシャルとランニング

■資源の効率的利用は「個別分散」ではなく「集合」で実現
 限られた資源でより多くの人間が生存するためには、効率の良いエネルギーの使い方をする必要があります。暖房で部屋を暖めたり風呂を沸かしたりする場合、1人でも5人でも必要なエネルギー量は変わりません。ならば、できるだけ集約的な暮らし方を考えることも有効です。 個別化・個人化の流れに逆行し、集団化・集合化を意識した住居のつくりや生活のリズムを考えることが有効です。
エネルギー効率から家族の適正規模を考える

■経済的価値観を否定する
 現代社会は専門分化することによって発展してきたと考えることができます。例えば、働いている人々の多くは、特定の分野で技能や知識をきわめて第三者へ提供するかわりに、生存に必要な他の物資、技術、知識などを他者から得ています。その媒介を果たしているのがお金です。
 自給とは、自分(達)のために資源を供給することです。つまり、他者とのやり取りが必ずしも前提条件ではありませんので、どんなに作業をしても儲からないことが普通です。つまり、自給的生活に必要な労力などをお金の単位に換算することがナンセンスであり、自給的生活は経済的価値観(損得勘定)をある程度まで否定しなければ成り立たないという性質のものでもあります。
「買えば済む」という生活はいつまで続くのか?

■自給にはマルチ性が求められる
 経済的価値観を否定する過程では、お金を出せば何でも解決するということも否定することになります。そうなると、生活の中では様々な作業を自分でこなさなければなりません。例えば、日々の家事は勿論のこと、日曜大工、農作業、林業などがあります。当然ながら、これらは商売ではなく自分の生活のために実施するものです。
 大抵の作業を自分でこなすことになるので、相応の技術力、すなわちマルチ性を身につけることが重要になります。
 最初からマルチな人はいません。少し器用な人はそこそこいますが、マルチ性を高めるには器用さ以上に必要な要素があります。それは、自分で自分の暮らしをつくるというクリエイティブな性質(性格)です。不器用ながらも、多くの失敗と少しの成功や達成を繰り返しながら生活することが、マルチ性を高める近道だと思います。
自給生活にはマルチ性が求められる

■貧困に飲み込まれないために
 様々な作業を「しなければならない」と思いながら追われるようにこなしていると、精神的な負担が増します。そんな暮らしではクリエイティブさが発揮できませんし、何より長続きしません。そもそも楽しくありません。精神的貧困に陥ってしまい、全てが悪い方向へ向かってしまいます。
 そこで、生活に遊び心を取り入れ、楽しみながら作業を進めることが自給生活を楽しむコツになります。実生活ベースで自給をしていると、生活に欠かせない燃料や食糧を得るなど、どうしてもクリアしなければならない作業もあります。しかし、それらも含めて生き方そのものをデザインするという感覚が必要です。また、人を迎えることを常に意識した暮らしを送ることも、同様の効果があります。
実用重視
design & entertain

■生き方を見つめ直す
 自給は自然から隔絶されたところで実践することは難しく、資源とその生産の場に近いところでの生活が基本となります。あらゆる動植物に近いところにいると、自分が1人で生きているわけではないことを直感します。同様に、人間は人間がつくった世界だけでは生きられないことも思い知らされます。
 我々は周囲(環境)との関係において生かされており、それを生き方の基本に据えることが必要です。それは現代人が失ったものであり、また、一番必要なことでもあります。自給的生活を通して、そんな当たり前の感覚を呼び覚ますことができます。
4人と数万匹
農家とカエルの関係から「生物との共生」を考える
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by senang | 2007-06-29 17:50 | 【2】自給について
ヤマガラの雛
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 昨日の昼、妻が鳥の雛を拾ってきました。道路の真ん中にうずくまっていたらしく、このまま放っておくと車に轢かれるかヘビなどに食べられるといった結末が待っているということでした。巣立ち直前に巣から落ちたようで、まだ飛ぶことができません。草を敷き詰めた小さな箱に入れると、隅っこへ行ってじーっとしています。
 羽が生えそろっておらず、頭には産毛が残っています。色合いからして、きっとヤマガラの雛のようです。

 「何を食べるのかな?きっと虫だろう。」

 ということで、妻は汗だくで虫取り網を振り回し、チョウやバッタを追いかけていました。捕った虫を割り箸に挟んで与えるのですが、口を開きません。なので、半ば無理矢理口をこじあけ、虫をねじ込みました。そうこうしていると、そのうち自分から口を開けるようになり、羽をふるわせて鳴きながら餌をせがむようになりました。
 今朝は早くから鳴いて餌を催促していました。妻は再び網を振り回し、虫を捕っていました。その後、知り合いの畑へ青虫を捕りに出かけたようです。

 あと数日もすれば飛ぶことができるでしょう。それまでのしばらくの間、我が家にいてもらおうと思います。

鳥の命と虫の命
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by senang | 2007-06-28 15:51 | 【2】環境との対話
【chapter2】から【chapter3】&【chapter4】へ
 拙ブログ【chapter2】では、自給をテーマに実験的実生活を進めてきました。しかしそれは、自己満足的に自給的生活をきわめるという趣旨ではなく、自給のためにはどれくらいの資源(土地など)が必要なのかという目的に基づくものです。詳細は、chapter2のテーマをご覧ください。
 そのため、広い農地と林地がある家に引っ越しました。引っ越してまだ7ヶ月で、1シーズンも経過しておりません。また、自給のために必要な作業が思うように進んでいません。従って、周囲の資源とともに生きるという暮らしぶりは、実現しているとは言い難い面があります。
 当然、これからも今の生活を続け、個人や世帯というレベルでの自給の可能性、自給のためにすべきことを追求していこうと考えています。そして、自給という行為や暮らしぶりから見えてくるものについて、さらに整理をかけていこうと思います。

 この度、まだ中途半端な状態ではありますが、chapter2からchapter3さらにchapter4へ移行しようと思い立ちました。実際にはchapter2は進行中ですので、chapter2と3と4が同時並行するということになります。

 chapter3では、未利用資源を具体的に活用する実験を行います。それは、chapter2で試してきた個人や世帯のレベルでの自給ではなく、エリアや関係者ともにもう少し広い範囲での活動になります。具体的には、Y自治区での社会実験を3ヶ年計画で実践していきます。それを克明に記録する意味も含めて、ブログに綴っていこうと考えています。ただし、これは本ブログとは別のブログを立ち上げることになるかもしれません。
 この社会実験から、来るべき資源枯渇時代に備える考え方や技術の基礎を見いだしたいと思います。15~20年後くらい先には、日本の未利用資源に注目が集まっていると予測しています。その時に、行きすぎた資源収奪や非持続的な開発をしないよう、環境容量に従ったルールをつくり、利用技術を確立しておきたいところです。

 chapter4では、さらに先の世の中を描きたいと思います。2030年代から2100年頃にかけての将来像です。とはいえ、緻密な予測は難しく、僕は予言者でもないため、フィクション的な要素を多く盛り込みながら、小説という形で未来を描いていく予定です。
 フィクションは、必ずしも娯楽的要素だけではないと考えています。そのあたりのことについては、別サイト極楽(Fiction World)おわりにで述べさせてもらっています。

(「極楽」(Fiction World)」より抜粋)
 現実社会の成り行きは、人々が考えていることや行いの結果だと思います。そして、人々が考えていることは、多かれ少なかれ空想(幻想)に依拠している部分があります。そうであれば現実ではないことにも大いなる意味があるのかもしれません。フィクションを世に出し、それを読んでいただくことで複数の人々に共通のイメージを想起させ、世の中が変わっていくという可能性もあり得るわけです。

 ということで、近々本ブログをリニューアルし、再出発したいと考えているところです。

 これまで拙ブログへお越しいただき、また、コメントをいただいたみなさま、本当にありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いいたします。
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by senang | 2007-06-27 18:44
Y自治区での社会実験
 近々、資源の自給と循環のための大々的な社会実験に着手します。限界集落エリアで、土地資源の再評価、放棄されている農地の復活、エネルギーの確保、生業の創出など、自給的暮らしを実現するための条件整備を行います。現在、そのための調整作業に追われているところです。

 人口1,600人のY自治区。そこが実験フィールドです。この地区を対象に、環境容量がどれだけああるのかを土地面積から試算してみました。

  農地面積325ha÷必要農地面積0.15ha/世帯
  =2,167世帯 ×5人=10, 833人

  森林面積8,910ha÷必要林地面積3.25ha/世帯
  =2,742世帯×5人=13,707人

 Y自治区には、ざっと住民の7倍の人数を養える資源蓄積があります。

 今回実験を行うのは、この中でも限られたエリアです。とっかかりとしては、1つの谷やまとまった農地(耕作放棄地)などが対象となるでしょう。下の写真をご覧いただければ、どんなところなのかがだいたいイメージできると思います。
 プロトタイプですので規模が小さくなってしまうことは否めませんが、最低でも上記の計算式にある1世帯あたりに必要な土地資源(農地0.15ha・林地3.25ha)に毛が生えた程度は確保したいと考えています。
 まずはここの環境容量を計測し、それに基づいて自給的生活を送るために利用可能な資源量、インフラ整備、人役、時間、人間関係(コミュニティ)などを忠実に積算したいと考えています。そうすることによって、上記の机上計算の誤差を修正することができます。さらに、必要人数と扶養可能人数のバランスについても考えることができます。
 これはきっと、全国的に里山資源を再利用する際のガイドラインとなることでしょう。例えば、全くの未利用資源に対して、○円・△人役を投入すれば□人の生存が可能となるという試算ができます。それが基盤となり、○円の予算でどれだけの資源自給を実現できるかという政策論議につながります。農業政策も、本来はこのようなベースがあってこそ初めて成り立つと思います。
 ま、最初からあまり硬い話をするのも無粋なので、まずは夢を描いたり、楽しいアイディアを出し合ったり、汗をかいて作業をしたりできる仲間集めから始めようと思います。多様な関わりが生まれるといいなと考えています。

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by senang | 2007-06-21 11:09 | 【2】自給について
木苺
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 職場に大きな木苺の木があるので、夕方に摘みに行きました。1つの木に、オレンジ、朱色、赤、黒っぽい赤など、様々な色の実がなっていました。トゲで手が傷だらけになりながら、30分くらいかけてかなりの量を採りました。それでも、ジャムにするにはまだまだ足りません。木苺の時期はもうしばらく続きますので、また時間を見つけて摘みに行こうと思います。

 息子の通学路にも木苺があるらしいです。最近、学校からの帰りが遅いらしく、何をしているのか訪ねたところ、通学路沿いにある墓場に木苺があり、それを食べているとのこと。黄色い実と赤い実の2種類の木があり、黄色い実の方が美味しいと言っていました。僕も黄色い実の方が好きです。ジューシーで、喉が渇いている時などは特に美味しいですね。

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by senang | 2007-06-20 18:14 | 【2】食と農
イニシャルとランニング
 「イニシャル」と「ランニング」。この言葉に「コスト」をつけると、初期投資と経営資金ということになります。周知のとおり、これは必要なお金を算出する考え方ですが、自給的生活では、「コスト」よりも「時間」や「人役」の方が重要になります。
 とても大雑把な数値ですが、世帯や個人という単位で自給的生活を実践するためには、1日あたり2~3時間程度(約2.5時間)のランニングがかかります。時間を人役に換算すると、2.5時間/8時間=約0.3人約となります。
 必要な時間は季節によって変動があるため、これは平均した数字になります。我が家の場合、風呂焚き、山の手入れと薪の確保、薪割り、畑仕事、草刈りなどがこれに該当し、さらに冬場はストーブを焚く時間も追加されます。

 ところで、現段階では我が家がこれだけの時間(人役)を生活に割り当てることができていません。それは、日々の暮らしの中では仕事、子育て、他の活動が優先されているため、1日たった2~3時間であっても生活に割く時間を工面できないという状況にあるためです。
 また、今の暮らしを始めて半年以上たちますが、まだイニシャル人役とも言うべき作業を行っている状況もあります。つまり、自給的生活のためにわずかばかりの時間を割くことができても、イニシャルとランニングがごちゃ混ぜになっており、時間と人役の使い方に改善の余地があるということにもなります。

 このような反省点を並べてみると、おおむね2つのことが見えてきました。

 1つ目は、自給のために必要な時間をしっかりと確保するということです。2~3時間/日または0.3人役を目安として、まずはこれが確保できるかどうか。2つ目は、時間と労力を効果的に使うため、段取りをうまくするということです。
 自給的生活に入る前に、または、自給的生活を始めてもうまくいかない場合に、このような時間と人役の使い方を再考してみると良いのかもしれません。我が家の場合、まずは仕事の仕方や地域活動の整理が目下の課題です。
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by senang | 2007-06-17 17:02 | 【2】自給について
「里山プランナー」 -自給圏域確立へ向けた社会実験-
 島根県では、自給圏域の確立を念頭に置いて具体的な作業を進めるべく、「里山プランナー」を募集しています。とりあえずは今年度中に社会実験を行うためのスタッフ募集という形ですが、新たな知恵と力を投入することで、この動きが第一歩となって人や資源の動きや考え方が変わっていくことを願っています。また、一過性のものに終わらず、継続したムーブメントにつながっていくといいですね。

「里山プランナー」の募集について
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by senang | 2007-06-15 18:33 | 【2】自給について
経済学者・人口学者のロジック
 経済学者や人口学者のロジックに辟易しているところです。こう書くと、全ての経済学者や人口学者が悪いように聞こえるかもしれませんので、僕が最近接点を持った方々というように限定させていただきます。

 それで、何に辟易しているかというと、簡単に言えば既存の枠組みや専門分野の範疇でしか将来を見通していないということです。もう1つ付け加えるならば、実践がなくて発言に現実感が伴っていないということもあります。

 数日前、とある人口学者がいきなりやって来て、押し問答のようなやり取りを繰り広げました。国の人口予測にも関わったというその方は、里山や限界集落を守ることのコストと効果を考えた時、大いに疑問があるということを切り出しました。
 僕自身、集落という枠組みを守ることを積極的にとらえてはいません。それよりも、これからの世界的な資源枯渇を目前にし、環境容量の限界が見えていることを重視した対応を考える必要があると思っています。さらに、日本の自給率の低さを考慮した時、里山の食糧・エネルギー生産能力を再評価して、これらを最大限に引き出さなければならないと考えています。

 そう述べた事柄に対して、人口学者は「それは従前の農政の存在意義を示す建前であり、日本の農山村に食糧生産能力はないのが実態だ」と述べました。
 確かに現状を見ればそのとおりです。しかし、それは里山に住む人たちが好んで進めてきた路線ではなく、日本が経済大国を目指してきたことの表れです。そして、このままでは国の先がないことは明白であるため、思い切った政策によって自給国家へシフトすることが重要です。

 人口学者との話はずっと平行線をたどりました。僕は、現状を抜本的に見直して国内自給率を上げることに全力を尽くすべきだという話の文脈において、資源を最大限に活用するために社会的コストを投入する必要があると述べました。しかし、人口学者はその理屈は成り立たないと言います。彼は、里山の少ない人数の生活を確保することに大きなお金をかけるくらいなら、利便性の高い都市部に住宅を建てて移住してもらった方が、社会的に良いお金の使い方ができるということを主張します。さらに、食糧やエネルギー供給は、平和と協調に基づいて国際的連携を模索すべきであって、そもそも国内だけで考える必要はないということも力説していました。そして、世界的な環境容量としては、人口を百数十億人まで扶養できるらしい(!)です。

 個人的には、国際関係を念頭に置いた政治や経済が信用ならないうえに、最近は環境問題が急激に問題視されるようになっているのに、他力本願で悠長なことを言っているなぁと感じました。時間が惜しいので、人口学者さんには早々にお帰りいただきました。
 それでも、異論を唱えていただける方との話には自分の考え方を見直すきっかけもあるので、良い勉強になりました。
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by senang | 2007-06-14 18:36 | 【2】自給について
限界集落のアカショウビン
 昨日、3世帯で高齢化率100%という集落におじゃましました。道路状況が悪く、幹線道路は車が1台通ることのできる道幅で、そのすぐ横は崖です。人はほとんど通らないでしょうから、車が落ちたらしばらく誰にも気づかれないということも十分にあり得ます。
 そんな道を進みながら、しばし車を停めて外に出てみました。「キョロロロロロロ・・・」という声がすぐそばでします。アカショウビンです。くちばしから足の先まで派手な赤色をしていますが、目につくところにはほとんど出てくることがないため、声はすれど姿は見えないと言われる幻の鳥です。
 声がすぐ近くから聞こえてきたため、声がする方へ向き直り、そろりそろりと近寄って行きました。すると、20mくらい先の茂みにその姿がありました。

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 野生のアカショウビンを初めて見たことに嬉しくなり、手にしていたカメラで撮影しようと試みました。しかし、2枚撮ったところですぐに飛び立ってしまいました。朝日に赤色が映えて、飛ぶ姿も優雅でした。
 写真は、カメラが悪いのか腕が悪いのか、例によって何となくブレてしまいました。ご了承ください。

 限界集落のアカショウビン。
 人間にとって撤退間近のエリアで、元気な野生が展開されていることを目の当たりにしました。
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by senang | 2007-06-14 17:55 | 【2】環境との対話
15平方kmの「自給圏域」
 今日、エネルギーファームをつくるのが夢だというおじいさん(もうすぐ80歳)から電話がありました。その内容は、今年の秋に地区の資源を見直す活動やパネルディスカッションを実施しようと考えているので、ひとつ話に乗ってほしいというものでした。最初はおじいさんの一方的な演説に「うん。うん。」と相槌を打っているだけだったのですが、話が段々と面白い方向へ進んでいったのです。

「ここの地区は15平方kmあるが、昔はこの中で全てを自給しとったんです。何でもつくっとったんよ。鍛冶屋も店屋もあって、生活に必要なものは全部揃った。戦時中は戦闘機の燃料もつくってましたよ。」

 100%に近い食糧を自給することは十分に可能だと思います。それよりも、僕は戦闘機の燃料をつくっていたという点に興味を持ちました。これを現在の動力源として復活することができないかというわけです。
 燃料として、何をどれだけの量生産していたのかについて聞こうと思いましたが、おじいさんはご自身のペースで話を続けます。質問しようとした時には昔の町並みの話になっており、今は使われなくなった道路や家の並びなどが記憶にある今のうちに地図にしておきたいということを延々と語っていました。

 僕は今、食糧やエネルギーの自給をするための「自給圏域」を設定し、その中で資源を循環的に使える仕組みをつくりあげてみようと考えているところです。現在と数十年前(おおよそ60年前)では生活の様相が大きくことなると思いますが、おじいさんの話によると、半世紀ちょっと前には「自給圏域」の基本ユニットがしっかりと機能していたということになります。しかもその規模が15平方kmということは、とても参考になります。

 生活に必要な店や職人さんが揃っていて、燃料までつくっていたという町は、どのようなものだったのでしょうか。秋には再現地図をつくりたいということですので、じっくりとその内容や暮らしぶりを調べたいと思います。
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by senang | 2007-06-04 17:23 | 【2】自給について