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広島県北部ローカルエネルギー構想
 先般、広島県にてまちづくりに関するワークショップがありました。7グループに分かれて議論し、今後に必要な活動を計画として組み立てていきます。ほとんどが高齢化への対応、観光、定住などのテーマに沿って町の活性化を指向していた中、僕が受け持ったグループではかなりユニークな案が出たところです。「ローカルエネルギーの実現へ向けて」というタイトルで、バイオマスなどを中心としたエネルギー供給・利用を考えました。
 前回、バイオマスエネルギーに関心のあるおじいさんが口火を切り、これに呼応して今回は農家のおばちゃんが新聞記事を持参し、アルコール発生のプロである杜氏さんが玄人肌の的確なアドバイスをするという具合に、短時間であれよあれよと話が展開していきました。グループでの話し合いだけでは勿体ないので、ここにアップさせていただくことにします。

「ローカルエネルギーの実現へ向けて」
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by senang | 2006-08-28 17:38 | 【1】限りある資源
電気が切れただけでこの騒ぎ
 電気が切れただけでこの騒ぎ。その電気の源は海外から買っているわけです。このことに危機感を持った日本人はどれだけいるのでしょうか?事故で送電線が切断されるということ以上に、エネルギーが輸入できなくなったら・・・と、根本的なことを考えませんでしたか?
 のど元を過ぎても、いえ、のど元を過ぎてからこそ、自給の重大さを真剣に考えていただきたいものです。「大規模停電に対する首都のぜい弱さが露呈した」で終わらせるのではなく、「ではどうするのか」を考えましょう。

 「エネルギーを自給し、小地域での流通を促進すること」に尽きるのではないかと思います。

<大停電>足止め27万人 ゆりかもめ、橋上でストップ [ 08月14日 10時11分 ]
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by senang | 2006-08-14 13:30 | 【1】限りある資源
人類の精神性は高まっているのか?
 人間のバカさ加減には、開いた口が塞がらないようなことが多々あります。

 国際社会では、現在進行形で展開されている戦争やテロ、中国をはじめとする環境破壊、国家ぐるみの人さらいや麻薬密売などがその代表格でしょう。また、政治システムや外交には不完全さや都合の良さなどが目立ち、他者(他国)に配慮のできる大人がやっていることとは思えない局面も多々見られます。
 国内でも信じがたい事件が頻発しています。深くは語りませんが、社会関係のみならず、親子の関係にさえ異常をきたす事態となっています。

 このような事件は、当然ながら人為的なものです。社会の暗部と位置づけられるかもしれませんが、社会の責任ではなく、最終的には人の心がもたらすものです。
 世界の、そして国内のこのような実態を目の当たりにしても、人類は精神面で進歩しつつあると言えるのでしょうか?事件性の高いニュースが目につきやすいマスコミの誘導的情報発信の中、素晴らしいニュースが見えにくくなっているのかもしれません。そして、見えにくいが故に、精神面での進歩も静かに進んでいると信じたい気持ちでいっぱいです。

 その昔、「人間なんて」と歌った人がいるように、所詮は人間なんて程度の低い存在なのかも知れません。ただし、感情的に「人間はダメだ」と言うつもりはありません。人間の評価や位置づけについて、実のところ主観なのか客観なのかということを考えることが重要であると感じます。

 過去、人類の歴史の中で凄惨な時期や事件は数多くありました。もっとも、現在も決して完璧な社会であるとは言い難いのですが、昔にくらべていくらかは改善されたのかもしれません。日本の場合、貧困が減り、隣近所と敵対することもなくなり、差別意識も減り、犯罪国家に支援するくらいお人好しになりました。主観的に見ると、そのように評価することができます。
 しかし、「昔に比べて良くなった」という近視眼的な評価をすることが良いのかどうか、今の状況に慢心せずに今一度考えてみる必要があります。先述したように様々な事件が起き、その質的様相は現代の特徴とも言うべき特殊で最悪なものです。客観的に見ると、精神性は依然として高まっていないか、かつてより悪くなっているとさえ感じます。

 つまり、「人間はここまで来たんだ、サルから進化した者としては立派なものだ」と考えるのか?または、「人間の所業は地球の存続にまで重大な影響をもたらしており、文明を持つ種族のすることとは到底思えない」と考えるのか?簡単に言えば、上を見るのか下を見るのかということになるのでしょう。

 個人的な見解ですが、人間の精神レベルは未だ低いままです。そして、これを脱しきるには、かなり努力が必要である一方、残された時間は少ないと考えています。
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by senang | 2006-08-14 12:26 | 【1】持続的な生き方
輸送の距離と費用は大幅に縮減される
 化石燃料を採取できるところは限られています。誰もがご存じのとおり、石油は中東で採れるということが最も代表的な例でしょう。
 一方、再生資源であるバイオマスが得られる場所は、地球上に多く存在しています。勿論、極地付近や砂漠地帯などで植物は育ちませんが、化石燃料の埋蔵箇所よりはるかに広く分布しています。主要な資源産出地が変わることで、輸送に関する距離とコストは大幅に縮減します。

 転じて、日本に目を向けてみましょう。ほぼ全土が森林地帯であり、資源が「点」ではなく「面」として分布しています。これをうまく利用すれば、遠いところから資源を運んでこなくても、手近なところで得ることができます。そうすると、輸送の距離が短縮されると同時に、それにかかる費用も削減されます。

 日本のバイオマスの分布とその輸送に着目すると、物流の常識を覆す必要があります。

 現在の物流は、他の国や分散している産地で得られる資源を一カ所に集め、そこから再配分することが一般的です。石油であれば、大型タンカーに積んでコンビナートに集積され、石油会社を通して日本各地のガソリンスタンドに運ばれます。また、野菜なども市場に集められ、そこを起点にトラックで運ばれて店に並びます。
 このような物流の常識に対して、これからはより強力に地産地消を進むことになるでしょう。バイオマス、とりわけ森林資源について言えば、「集積と再分配」という発想が合わなくなり(余計に効率が悪くなり)、流通の圏域として設定されていたエリア設定も狭くなると考えられます。食糧もこの発想で進めていくべきだと考えます。

 話を再生資源の分布に戻し、世界規模で考えてみましょう。
 これまで石油産出国であったところは砂漠地帯です。当然、バイオマスが乏しく、たちどころに資源のない国になってしまいます。生長量の低い極地付近も、砂漠化が進んでいる中国内陸部も、同様に資源のない地域として位置づけられます。これらの地で木を植えて育てる活動を興しても、今からだとかなり時間がかかります。それが資源として利用できるようになるより早く、石油が枯渇してしまうかもしれません。

参考:「経済発展の生態学 -貧困と進歩-」
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by senang | 2006-08-12 13:05 | 【1】限りある資源
10億円で国をつくる男 「事業展開」
 吉村良治は、永野町のみならず栗下市で最大の土地所有者となった。その大半が林地であるが、面積は栗下市のおよそ4分の1にのぼる。持っている土地が多いため、吉村は市で最高額の個人納税者となった。市役所は異例の事態に戸惑いながらも税収の急増を歓迎し、吉村の構想に対して全面協力する姿勢を打ち出した。
 2017年に入り、吉村の事業がスタートした。
 町の中心部近くの広い空き地で工事が始まった。山から伐りだした木を材料として大きな建物を建てている。再々工事の進捗を確認しに来る吉村は、町の住民が暮らせるだけのエネルギー供給が可能な施設をつくると繰り返し語っている。他所から来た技術者と思われる者の他、町内からも多数の雇用を募って工事を進めた。
 山あいにはかつて農地だったところが点在している。今では草木が生い茂り、人が入ることのできない藪になっている。春になり、吉村は村内で人を募り、藪になった農地の周囲に柵を張り巡らせた。そして、その中に大量の牛を放した。牛があらかた草を食べた後に羊を放し、食べ残した草木を根こそぎ取り除いた。5月の連休頃にはそこへ耕耘機を投入して耕して種を蒔いた。
生産調整によって農家が持て余していた水田には、再び水が張られて稲が植えられた。「国の政策を無視した農業をするな」という主張を掲げて反発する者もいた。彼らの主張は、生産調整を守らなければ助成金がもらえなくなるということなので、吉村は助成金額以上の資金を渡すから米をつくってほしいと説得して回った。
 夏が終わる頃から、山の木の伐採も始まった。間伐が主体なので効率は悪いが、スケールメリットを活かして生産性を向上させた。どこまで行っても吉村が所有する山なので、縦横無尽に作業道を抜くことができた。伐った木はストックヤードに運び込まれ、次々とエネルギー生産施設の中に送り込まれていった。これによって、無計画に植林されて弱っていた山が、健全な環境を保つ山として蘇った。
 10月に稲刈りを行った。吉村達が栽培した米は食べるためのものではなく、とにかく収量を上げることに力を注いだため、平均反収の1.5倍の収穫高を得ることができた。収穫した米はエネルギー生産施設に運び込まれ、そこでアルコールの醸造が始まった。
 吉村が現れて1年が経つ。最初は半信半疑の住民が多かったが、作業に携わる者が段々と増えてきた。山、荒れた農地の復旧、施設などのプロジェクトごとに、仕事を取り仕切るリーダーも育ちつつある。それまで自信と誇りが持てなくなっていた農林業に対して、再び可能性を見出す者も現れた。吉村の事業によって放置された土地が息を吹き返していくのを目の当たりにし、また、雇用が生まれたこともあり、住民の笑顔は確実に増えた。
 反面、一部では「今更どうなる」という批判も出た。しかし吉村は、そんな声を気にすることなく事業を進めていった。


極楽(FIction World)

用語解説[ 固定資産税 ][ 生産調整 ]
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by senang | 2006-08-12 12:03 | 物語
スーパー・マイノリティ
 持続的な社会のフィールドとして、僕は永続的な資源供給が可能な農山村(過疎地域、中山間地域、里山地帯)を念頭に置いています。このエリアをめぐる見解を少し紹介いたします。

 国の過疎地域振興の担当者によると、首都圏で農山村の必要性を説いたところで、ほとんどの人が理解を示さないということです。まず、このようなところへ行ったことがない。もう外国くらい遠い世界のような感覚であるとさえ言っていました。日本の国土の7割が農山村なのですが、その中で都市部の人が行ったことがあるのは、せいぜい観光地化されたところくらいでしょう。日本の人口の7割が都市部に存在していることを考えると、日本人は国土の3割程度しか知らない者が大半で、そこで世論が形成されていることになります。
 日本には様々な暮らしぶりがありますが、数の論理で無視されているという解釈もできます。それぞれの地方に伝わる風習やその地に密着した生き方は、資料の世界となっていく・・・。何とも偏りの大きな国です。

 過疎地域に対しては、敵視している者までいるとのこと。要するに、都会で集めた税金をなぜ人のいないところへバラ播かなければならないのかということです。自分たちの貴重な税金をどうして・・・ということで、敵視しているのでしょう。生活条件が不利な農山村の住民に対して、「好き勝手に住んでいるんだから放っておけばいい」「そんなに不便なら便利なところへ出てくればいい」と言われます。
 国の担当者は、首都圏で過疎地域振興の話をするのは、アラビアあたりへ行って観客が敵ばかりのスタジアムでサッカーの試合をするようなものだと表現していました。日本人の数量からすると、我々はごく少数の者=スーパー・マイノリティだということになります。

 メジャーであろうがマイナーであろうが、聞く耳を持たないのならいくら言っても無駄だというものです。しかも、敵視しているのであれば、農山村の存在を強調すればするほど火に油を注ぐことになるでしょう。それに、多勢に無勢です。

 そのうち人類は分化すると思っていましたが、既に意識の面では分化してしまっているのかもしれません。同じ人間という種、しかも同じ日本人でも、共通体験を持たないわけです。
 2020年あたりに資源状況がガラッと変わった時、資源のない都市側の欲求は目に見えています。その時、農山村側の人間がどう対応するのかが問われることになるでしょう。
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by senang | 2006-08-11 18:06 | 【1】持続的な生き方
脳は身体と精神をつなぐ装置
 以下、仮説の域を出ませんが、さっき寝つけずにゴロゴロしていた時に湧き上がってきた考え方をダイレクトに書かせていただきます。

 身体面における脳の働きとして、各組織からの情報を神経を経由して収集し、肉体の維持・生存のための命令を送っていることが挙げられます。脳は元々、生存のための情報処理を担う器官として発達したのだと考えられます。そのような自律機能の中枢である脳が頭にあるのは、たまたま身体内での物理的な合理性に由来するからなのかもしれません。
 ところが人間の場合は、情報の処理能力が(どういうわけか)向上したため、情報の収集・分類(選択)・変換などについて「独自の脚色」を行うことができるようになりました。この「独自の脚色」は、時代や文化によって様々に変化しますが、身体性に基づく論理や欲求に大きな影響を受けていると考えられます。なぜなら、脳は身体の器官の1つとして存在し、初期段階では肉体を維持するための情報処理に特化した役割を担っていたと考えられるからです。

 脳は、このような遺伝子や細胞に由来する身体性に合わせて、霊的な世界(非物質世界)に通じる精神性にも何らかの関わりがあると見ています。人間の脳は、情報の処理能力が(どういうわけか)向上したため、非物質世界(精神世界)と物質世界の変換を可能にしたのかもしれません。非物質世界を物質世界へ変換することが「考える」ということであり、この2つの性質の結節概念が「自我」と言われているものなのかもしれません。
 このことを突き詰めて考えると、自我は身体性と精神性の2つから成っているということになります。そして、脳は主体的に思考する器官ではなく、これら2つの性質の結節装置であるという表現がより正確なのでしょう。

 脳は結節装置(ハード)である。自我は結節概念(ソフト)である。このことを意識しつつ、「考える」ということの意味を自覚すると、何が重要なのかが少し見えてきたように感じます。
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by senang | 2006-08-11 02:36 | 【1】地球のリズム
今のうちに「資源配分マスター」を
「放っておいても森林資源の需要は高まる」
「だから今、需要についての心配をしなくてもいい」

 今日はかつての師とこのような議論をしました。 そして、森林資源の用途はエネルギーだけではなく、「再生資源」として多様性が見込まれるとのことです。「再生資源」とは、化石燃料のように使い尽くしたらなくなる(非再生)ではなく、永続的に再生可能なものを意味しています。
 そして、師は続けます。

「今すべきことは、需要に応えつつも供給のバランスを保つための方法を考えることだ」

 つまり、来るべき森林資源時代に備え、過伐や乱伐を規制する仕組みを今から考えておくべきだということです。言い換えれば、「再生資源」が再生不可能な事態に陥らないようにするということになります。
 このような議論の後、2人で意見が一致したのは、「資源配分マスター」が必要であるということでした。ただし、それが人なのか、機関なのか、企業なのか、計画なのかなどについては漠然としたままでした。そこで、今後は「資源配分マスター」が何なのかということを具体化していく必要があります。ただし、現行の行政、研究機関(者)、森林所有者は、「資源配分マスター」として不適合だということでも合意したところです。

 師は、これを確立するためのタイムリミットは15~20年と見ていました。

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※写真はイメージです。
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by senang | 2006-08-10 23:59 | 【1】限りある資源
今の社会や価値観とは決別する 2 - 格差の拡大-
 最近、格差が広がっていると言われています。その実態は、正社員と非正社員(臨時、パート、アルバイトなどフリーターに属する者)との間の所得格差ということらしいです。低所得者層では、収入が少ないことが要因となって結婚に二の足を踏む者が増え、ひいては少子化につながっているという分析もあります。さらに、全体的には少数である高額所得者が、日本の全所得額の大半を占めているという偏った実態もあります。
 格差拡大の本質的な問題は、所得のアンバランスの発生や低所得者層の発生ではないと思います。個人的な仮説ですが、社会観や価値観のレベルが下がると、所得に限らず様々な局面で格差が広がるというような法則性や因果関係があるように感じます。所得についても、格差が出ているのであれば、景気や経済の動向を分析することに加え、仕事、社会、生き方などに対する国民の考えがどうなっているのかを調べた方がよいでしょう。

 現状を出発点として考えた場合、格差はますます広がり、二極化してしまうのではないでしょうか。なぜなら、今は決して社会観や価値観のレベルが高いとは言えないからです。戦後の日本は、確かに急速な成長を遂げました。反面、アメリカ的な家族像や社会像が追求され、消費が美徳とされ、物質的な豊かさが価値観の至上として位置づけられました。このようなライフスタイルと考え方を進めてきた結果が、昨今の格差の拡大を招いたと考えることもできると思います。
 この即物的な価値観から脱出しない限り、格差は拡大し続けるでしょう。そして、その格差(ギャプ)を現在の社会システムではリカバーできなくなる日が来ると思います。その時に破綻を迎えます。猶予期間は15~20年といったところではないでしょうか。

 社会そのものに軌道修正をかけるならば今しかチャンスはありません。しかしそれは、大変な労力と時間がかかります。危機感を感じた少数の人が軌道修正に労力と時間をかけたとしても、大多数の人は上記のような価値観から脱出できないでしょう。
 格差の一層の拡大が招く社会の破綻。それが一昨日に記事として書いた「分岐点」なのかもしれません。そして、正確には「分岐」するのではなく、社会の破綻を乗り越えることができなければ淘汰され、乗り越えることができる者=新たな価値観を持つ者に生き残る余地があるという構図なのではないかと考えています。

 今後の15~20年で社会の軌道修正を試みるのか、個々のレベルで生き残るための価値観を身につける=発想を変えるべきなのか、または両方が同時に進むのか・・・。いずれにしても険しい道のようです。
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by senang | 2006-08-09 23:57 | 【1】100年後
不自然な食べ物
 食糧の自給を考えるのであれば、食生活を変える必要があります。また、必然的に変わらざるを得ません。「ある時にあるものを食べる」ということを基本にして、旬の食材を活かした食事を心がけることになります。
 キュウリができるのはいつの時期か知っていますか?ナスは?ホウレンソウは?キャベツは?バナナは?スーパーにいけば季節を問わずこれらの野菜や果物を買うことができます。しかしそれは、自然の移り変わりを無視して便利さと物質的な豊かさ・多様さを追求した結果です。日本人は、まず食の面で自然のリズムから遠ざかっていると表現することもできます。

 国内でつくっているものを食べるのならまだしも、今の日本人の食生活の大部分は、日本で栽培・生産されていないもので成り立っています。食糧自給率40%(カロリーベース)がそのことを象徴しています。
 日本は先進国の中でも食糧自給率が低いということは周知のことですが、遠方から無理に運んで来たものを食べることが何を意味するのか?さらに、輸入に依存して生きることが何を意味するのか?それによって得られている「豊かさ」とは真の意味で豊かなことなのか?これについて、我々はもっと真剣に考えるべきではないでしょうか。

 例えば、舌の肥えた人は、わざわざアメリカから運んできた肉を食べたいとは思いません。というより、いくら肉が食べたいと思っても、アメリカ産牛肉は食べる気が起こらないらしいです。身体が受け付けないと言っても良いでしょう。そんな理由で、舌の肥えた人は某ファストフード店を避ける傾向にありますし、アメリカ産牛肉は食卓にものぼりません。
 「身土不二」という言葉があるように、その土地で採れたものを食べることが最も身体に良いわけです。「味が合わない」という感覚は、それを身体で関知しているわけであり、実はとても重要なことです。
 食材を買う場合、価格が高いか安いかだけで吟味していると、不自然な食べ物を多く取り入れることになります。そうなると、良いものを身体で判断するという能力を失い、健康で美しい身体をつくることもできなくなるでしょう。

 他所でつくられた不自然な食べ物で不自然な人間になるより、「食糧の自給→食生活の変化(身土不二)→健康な身体」を志向した方が良いと思います。まずは身近な「食」から実践していくことが、「消費型社会」から脱皮する第一歩であり、「持続型社会」構築の近道なのかもしれません。
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by senang | 2006-08-09 10:21 | 【1】持続的な生き方