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じゃんじゃん米をつくれ!
 僕が住んでいる町に専業で農業を営んでいる知り合いがいます。年齢は50歳くらいで、いくつかの職業を経た後、家を継いで農業を始めました。我が家とは家族ぐるみのつきあいをしており、先日も雑談をする機会がありました。その時、時代の先を見越したアイディアがどんどん出てきて、日本の農業の未来に少しだけ明るい展望を持ったところです。
 燃料作物の栽培と実用化は、ブラジルのサトウキビが有名で、最近はアメリカもこれを追従しようとしています。また、ヨーロッパではエタノールとガソリンを混ぜた燃料に対応したエンジンを搭載した車が普及し始めています。少しずつですが、化石燃料からバイオ燃料へといったエネルギー転換が起こっています。
 一方、日本の農業の中心は稲作。食糧自給率が低い日本において、米だけは自給率100%です。さらに、1970年代以降の減反政策によって、水田のおおよそ3割で米をつくらなくなりました。そこで、その方は「米を燃料にする」というプランを持っています。米をアルコール化し、燃料にしようというわけです。
 日本は米で酒(アルコール)をつくってきたわけですから、醸造のイロハを知っています。燃料用の米であれば、食味値はどうでもよく、とにかく量が勝負。放棄された水田も復活させて、とにかく米をつくればよいわけです。自動車メーカー各社が進めているハイブリッドカーの開発は、少し方針を変え、アルコールで動く車の開発に重点を置いてもよいでしょう。
 減反3割という実態を見ると、土地資源の面で生産余力はあるわけです。農地は食糧をつくる場所だけではなく、エネルギーをつくる場所としても注目すべき時代が来るのかもしれません。
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by senang | 2006-05-30 18:26 | 【1】限りある資源
様々な100年後(その3)
 様々な方に、100年後はどうなっているのかという問いかけに答えていただいているところです。今日はその第3弾を紹介いたします。

 100年後、22世紀はドラえもんが生まれた頃です。(ちなみにドラえもんは確か、2112年9月3日生まれだったと思います。)世界はドラえもんが生まれた頃のように、ネコ型ロボットや、人間もロボット化しているんでしょうか?四次元ポケットもあるんでしょうか?
 そこまで飛躍的に進化しているとは思いませんが、少なくとも、エネルギー環境は目を見張る進化を遂げていると想像します。何しろ、石油は底をつき、それでもエネルギーは日々使われる一方。きっと、太陽や空気や水や風や土や・・・使えるものは何でも使ってエネルギーを作る技術を考えているんでしょう。根本を変えようとはせず・・・(つまり、消費削減ですね。)
 その結果、地球はやせ細り、仕方なく人々は他の星へ行って暮らすことを望むようになります。今でいう、田舎回帰というか、Iターンのように、地球から異星へ生活の場所を変えるんですね。そしてまた、そこの全てのエネルギーを使い果たし、また別の星へ移動します。そして、宇宙すべてを使い果たします。
 そうしているうちに、地球をリサイクルできる技術もできるのでは?(イメージ的には充電するとか!?)
 23世紀頃には、また地球に戻ってきているんじゃないですかねぇ・・・
(30歳代・女性)

 地球外を視野に入れたご意見、ありがとうございました。資源を求めて他の惑星に群がる人間を想像した時、イナゴの大群が頭をよぎりました。殺虫剤を散布されないように、根本を見つめ直さなければ・・・と思いました。
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by senang | 2006-05-29 01:14 | 【1】100年後
曲がっても、空っぽになっても
 生きることのエネルギーは、遺伝子が持つ「自己と種を保存する」という欲望に基づいているのかもしれません。遺伝子に逆らい、生きることを自ら放棄する生物がいるのでしょうか。全体が残るために個体が犠牲になることもありますが、全体にとって何の役にも立たないのに個体を滅したがる生物はいるのでしょうか。

 1種類だけ知っています。

 生物は自然をフィールドとして生存しています。ところが、人間は自然から切り離され、社会というものに根本を置いて生存するようになりました。しかも、自然とのリンクを絶った生活が顕著になったのは現代に入ってからであり、人類の歴史から見ると本当にわずかな期間のことです。短期間で生き方を急激に変えてしまったというわけです。これだけでも歪みが出て然りです。
 人間の社会は、自然ではありません。つまり、不自然なものです。そんな社会に埋没し、生きるための論理を失っているということが行き詰まりの原因ではないかと思います。ならば、社会から離れた視野を持ったり、一旦は社会を否定したりすべきだと思います。そこまでジャンプできなければ、せめて社会の外=自然に触れてリズムを取り戻してみませんか?

生きようとする自然のリズム・遺伝子の論理をご堪能ください。
 ↓

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 一度根を生やしたら、そこから動くことはできません。
 風雪に耐え、折れても曲がっても伸びていこうとしています。

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 こうやって伸びていった先には、何があるのか...?
 こうやって伸びるまでには、どれくらいの月日を要したのか...?

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 穴だらけになって中身がなくなっても、それでも立っています。
 それでも生きています。
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by senang | 2006-05-26 21:58 | 【1】地球のリズム
日本は1億人を養えるか?(その3)
 同じ日本国内といえども、養うことのできる人数は場所によって異なります。それはつまり、資源がどこで生産されるのかということです。単純に考えて、エネルギーと食糧は都市部で生産できません。

 それは土がないからです。

 近未来において、エネルギーと食糧の再生産を行うことのできるのは、土がある農山村あるいは里山地帯であるということになります。この前提に基づき、農山村での試算を行ってみました。
 モデルとして取り上げたのは、僕が住んでいるI町。I町は人口約6,000人という中国地方のてっぺんにある小さな町です。高度経済成長期以降に過疎化が進み、その流れは今も続いています。I町の農林地を元に、試算を行いました。

 農地の現況に基づく扶養可能人数
  農地面積904ha÷必要農地面積0.15ha/世帯=6,027世帯
  6,027世帯×5人=30,133人=約3万人

 林地の現況に基づく扶養可能人数
  林地面積21,156ha÷必要林地面積/世帯3.25ha=6,510世帯
  6,510世帯×5人=32,548人=約3万人
  ※I町の林野面積は21,156haで、ほぼ全域が里山に該当します。

 繰り返しになりますが、木質系バイオマスによるエネルギー供給を考えた場合、日本の生存可能人口は1,154万人。現在の総人口の1割程度です。一方、I町では今の5倍の人口が生存可能です。ちなみに、日本の人口の7割が都市部に集中しています。
 このことから、日本の人口と資源は、分布バランスがかなり悪いと感じます。そこで、資源をどのように活かして配分するのかを考えることが重要になります。100年を見越し、国のバランスを考える試みの必要性を痛感しました。
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by senang | 2006-05-26 13:18 | 【1】人類の適正規模
日本は1億人を養えるか?(その2)
 「日本は1億人を養えるか?」というテーマに基づき、理論的なシミュレーションを行ってみました。過去記事でも里山の面積に着目して同様の試算を試みており、今回はこれに農地を加えて再考したものになります。面積のみを元にした試算であり、かなり大雑把なものであることをご了承ください。

条件の設定
 生存条件を次のように設定しました。
  1)物質的豊かさは格段に落ちる。物質的水準の維持・発展は考慮しない。
  2)生存に必要な最低限のものとして、食糧とエネルギーの確保・供給に絞る。
  3)資源の100%国内自給を想定。
  4)エネルギー源は木質系バイオマスを想定し、林地に依拠する。
  5)食糧は米と野菜の確保を想定する。
  6)1世帯を5人家族として計算。

理論実験の展開
 既往の文献や経験値などから、人間が消費する資源、資源を生産する土地の面積を次のように設定しました。

 食糧
  1)1世帯あたり年間500kgの米を食べる。
   →米の収穫量は5,000kg/1haより、0.1ha/世帯の水田面積が必要。
  2)畑として水田の半分の面積が必要であると想定する。
   →0.05ha/世帯の畑が必要。
  3)肥料供給源として水田の2~3倍の面積に相当する山林が必要。
   →0.2~0.3haの「採草地」が必要。

  1世帯が暮らすために必要な農地・林地
   農地:0.1haの水田+0.05haの畑=0.15ha
   林地:0.25haの採草地

 エネルギー
  160~170世帯分の電力を木質系バイオマス発電で持続的に賄うには
  500haの山林が必要。
   →1世帯が持続的に電力を得るには3haの「電力林」(造語)が必要。

 農地の現況に基づく扶養可能人数
  全国の農地面積3,675,820ha÷必要農地面積0.15ha/世帯=24,505,467世帯
  24,505,467世帯×5人=122,527,333人=約1億2,253万人

 林地の現況に基づく扶養可能人数
  全国の里山面積7,500,000ha÷必要林地面積/世帯3.25ha=2,307,692世帯
  2,307,692世帯×5人=11,538,462人=約1,154万人
  ※日本の林野面積は2,500万haで、このうち里山に属する面積を用いました。
  ※里山面積は、600~900万haと言われており、その中間値を取りました。

考察
 日本の農地をベースにすると、1億人規模を支えることは可能です。ただし、国内で生産できる食糧に限られるため、多様性は格段に失われます。また、ここで示した生産量(収量)は、機械化と化石燃料の使用に支えられたものであり、単位土地あたりの生産効率が最大になっています。化石燃料からの脱却を考える場合、生産効率がかなり悪くなり、生存可能人口も低下することを覚悟しなければなりません。
 食糧生産を考えるうえでも、エネルギーの確保が重要な課題になります。エネルギー源として木質系バイオマスを想定すると、供給量は林地面積に依拠することになります。ところが、現在の里山面積をもとに計算したところ、家庭用電力を基本として養うことができるのは約1,154万人。さらに産業的電力使用(農業を含む)を勘案すると、生存可能人口がもっと少なくなるのは必至です。ちなみに、上記の計算の分母に日本の全林野面積(2,500万ha)を当てはめても、生存可能なのは3,846万人という計算になります。しかし、奥山にまで手をつけることは作業工程の面から現実的ではないうえに、環境の持続性を著しく欠くことにもなります。
 以上より、日本で生存できる人間の適正量を決める資源上限は、食糧よりエネルギーの方が低いと考えられます。具体的には、電気のない(大きなエネルギーを必要としない)前近代的な生活を受け入れるのであれば1億人近くが生存可能であり、近代的な生活水準を求めるのであれば適正規模は1,000万人程度にとどまるということになります。
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by senang | 2006-05-26 10:48 | 【1】人類の適正規模
日本は1億人を養えるか?(その1)
 昨夜、日本が鎖国したら何人まで生きていけるのかということを妻と話していました。数字の根拠はありませんが、妻の見解は以下のとおりです。
  ↓
 生活レベルを維持することは無理。
 今の生活を続けていると、近いうちに滅びる。
 日本で何人が生きていけるのかは、生活を変えることを前提に考えるべき。
 「生きていける=食べていける」という発想をすると、今の1億人規模は養えると思う。

 発想の根本はなるほどと思いました。しかし、今の日本は食糧の6割を輸入に頼っている現状があり、その分を自国の食糧(農業)でカバーすることができるのかが問題です。これについて、妻はさらに続けます。
  ↓
 だって、食べ物をたくさん捨ててるじゃないか。
 捨てているのなら輸入しなくてもいい。
 だから、そんな生き方してたら滅びるって。
 あるものをある時に食べることを基本にしなければだめ。

 1億人という数字が当たっているのかどうかわかりません。それでも、農地をフル活用した時の扶養人数がどれくらいなのかという計算はできます。まずはこのあたりから検証してみたいと思います。
 また、仮に1億人が生きられるとしても、現在の社会システムに頼らないこと、20世紀的価値観を変えることが大前提となります。農地や食糧生産などの物理的な課題が解決しても、むしろこちらの方が困難であり、「滅び」の引き金になるのかもしれません。
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by senang | 2006-05-24 09:49 | 【1】人類の適正規模
様々な100年後(その2)
 やはり100年先のこととなると、イメージに共通項を得にくいのかもしれません。それでも、積極的に将来を考えていただける方がいることは嬉しいです。当たっているのか外れているのかは問題ではなく、まずは「100年後を考える姿勢」があるかどうかが重要だと思います。
 今日は、様々な方が考えた100年後の第2弾をお送りします。

 100年後、どうなっているか。高齢化社会は進み、社会は高齢者に対応したもので、今のように「高齢者=お年寄り」ではなく、労働者であり、社会の一員でありまだまだ責任の大きなものとして扱われている。安息、隠居などと言う言葉は死後であり今の沖縄のように「80歳未満は若輩者!」高齢になっても働きやすいように生活しやすいように町は作りかえられている。人生の先輩としての求められる役割りは大きく、いささか与えられたり今のようにねぎらわれることは格段に少なくなってきている。
 若年層、中年層にいたっては、今のスウェーデンのように高額な税金を払うが、教育、医療においては完全保障となっている。老後も保障していく形である。
 地域的なつながりも多いが、全国世界との交流も、行政ではなく個人単位でのものが多くなり、生活、業務に関して生かしていける活発な社会となっている。ひいては日本らしさを実感できる社会となっている。
(40歳代・女性)

 「ひいては日本らしさを実感できる社会」になっていることが大事だと感じました。ご意見からは、社会保障制度をはじめ、システム的に成熟した社会の到来がうかがえます。

 ありがとうございました。
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by senang | 2006-05-23 19:15 | 【1】100年後
鮎の回想録 「転機」
 雪川鮎は、人間というものは2種類に分かれると思っている。100年後には死滅している人間と、そうでない人間である。そして、大半の人間は前者に属すると考えていた。
 100年後まで生き残るという考え方には2つの意味がある。1つの意味は、人間が本来持っている寿命に由来するものである。日本は世界最長寿の国という看板を長年維持し続けている。2036年の日本の女性自然平均寿命は88歳になった。それでも、100年以上生きる者が多数を占めているわけではない。たった今生まれた新生児であっても、何もせずに健康に生きれば100年を待たずして死ぬことになる。一方、遺伝子操作による延命施術を受ける者が年々増えている。今のところ、安全が確保できる範囲内で延ばすことのできる寿命は150年から200年と言われており、通常の人の1.5倍から倍の人生を生きることになる。
 100年後まで生き残るというもう1つの意味は、生き残る価値に由来するものである。将来にわたっての持続性を考えない者とその末裔は、100年後まで生き残るべきではない。自己の欲求を満たすことに終始し、食糧やエネルギーをはじめとする資源の浪費によって地球のバランスを崩しているからである。そのような文明、国家、組織集団などは滅びて然りである。他方、100年先や200年先まで人類が生存可能となる礎をつくろうとしている者も存在している。彼らの意志を継ぎ、持続的な生き方を実践する者には100年後や200年後が待っている。
 鮎は人類の将来についてかなり悲観的であった。21世紀前半の人間の多くが将来のことを考えて生きているわけではなかったからである。消費型の社会システム、全人類主義を叫びながら根強く残る国家主義、焦燥感を感じながらもせいぜい自分が生きている間のことだけが全てであるという人生観など、21世紀も半ばにさしかかろうとしていながら、社会は20世紀の価値観を色濃く継承していた。これに加えて、人間の寿命は遺伝子操作技術によって伸び続けている。20世紀的価値観に支配された人間が寿命を飛躍的に延ばしていることに対して、鮎は一層の危機感を募らせていた。100年後まで生きる資格のない者がのさばっている世の中に幻滅していた。
 鮎は自分の将来についても常に暗いビジョンを描き続けてきた。それは5歳の頃にまで遡る。幼くして神経系の病気を患って遺伝子療法を受けた時、ついでに延命施術も行うよう親が医師に指示したのである。成長するにつれ、鮎は自分の寿命が人の倍あることを知り、自分が集団の中では特異な存在として扱われていることを実感するようになった。自分で望んで手に入れた長寿ではなく、親への不信感も募り、エクセレント・マイノリティとしての実感が強烈にあった。自分は生きる資格のない人間であると思い、死のうかと何度もためらいながら、友達をはじめとする人間関係から距離を置いて生きてきたのである。
 30歳を前にして、鮎は少しずつ客観的に周囲を見つめることができるようになった。同時に、世の中には自分以上に生きる価値のない者が多いことを実感することとなった。200年先の人々が今の世界を振り返った時、21世紀は人類が退化していた時代として酷評されるかもしれない。そして、自分もその中の1人としてひとくくりにされてしまうだろう。それは鮎にとって不条理なことであった。
 寿命が人より100年くらい長いことは大した意味を持たない。生きて次の世代のための未来を拓かなければならない。2036年、鮎はそんな思いからエネルギー省を退職し、自分が信じるままに生きてみようと決めた。

 激変の日は、そんなことには関係なく近づきつつあった。


極楽(FIction World)

用語解説[ 自然平均寿命 ][ エクセレント・マイノリティ ]
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by senang | 2006-05-22 19:12 | 物語
プロローグ -資源限界とのバランス-
 資源の供給量には限度があります。まず、化石燃料が無尽蔵ではないことは周知のとおりです。また、バイオマスをはじめとする太陽由来のエネルギーは、長い目で見ればほぼ無限に近いと考えられますが、時間あたりの供給可能量(例えば植物の生長量に比例)、輸送可能距離、単位あたりのエネルギー効率などに上限があります。農地にも限りがあり、生産される食糧の量にも上限があります。
 このような限られた資源の中で、我々はどのように生きるのか。先の記事でも、今の時代にそれを考えることが重要だということを述べました。さらにここから、とても興味深いテーマが浮上してきます。

 資源の上限を勘案した場合、生存できる人間の適正量はどれだけか?

 このテーマをどぎつく言い換えれば、「人間は何人まで地球上に存在してよいのか」ということになります。個人的には、地球にとって今の65億人という数は多すぎると考えていますので、「人間は今の水準から何人まで減らなければならないのか」ということにもなります。
 具体的な数量は、人類の生き方によってかなり異なってきます。依存する資源によっても違います。生き方には様々なシナリオと数多くのオプションが考えられるでしょう。人口を減少させる(減少させられる)時間スケールの取り方によっても、そのプロセスが大きな痛みを伴うものなのか、軟着陸が可能なのかが異なってきます。エネルギーの切り替えに要する時間も考慮に入れなければなりません。
 つまり、単純な予測が難しいため、適正規模を明確に示すことも簡単ではないということになります。それでも、最善のシナリオと最悪のシナリオを描きながら、少し幅を持たせた将来像を描いてみる必要があると感じています。
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by senang | 2006-05-21 21:09 | 【1】人類の適正規模
クマ接近!
 先週に続いて再び山へ行ってきました。総勢3名で、雨が降って霧もたちこめる中、午前中はほぼ尾根伝いに進み、午後から急なコースを通って下山しました。カッコウ、ツツドリ、ホトトギス、ヤマガラ、コガラ、シジュウカラ、ウグイス、オナガ、アカショウビン・・・。鳴き声の紹介だけではなく、今回はカメラを忘れずに持って行ったので、状況もお伝えすることができます。山頂付近の霧に包まれた樹海をご覧ください。
  ↓
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 山頂の約1km手前に長い階段があり、その途中でひと休みしていた時のこと。突然、上の方から何かが駆けてきました。ガザガザガザと笹藪を無造作にかき分ける音が、かなり早いスピードで近づいてきます。僕がとっさに「何か来る!」と言うと、座っていたあとの2人も慌てて立ち上がりました。
 このあたりにシカは生息しておらず、イノシシの生息域ももう少し下。なので、大型動物となるとクマの可能性が高いのです。中国地方ではクマによる人身事故が頻繁に起きています。出会い頭が最も危険で、飛びかかられてとっくみあいになったまま斜面を転げ落ちた人もいます。
 この日は、よりによって熊鈴をつけていませんでした。そのため、3人は慌てて「オォ~!」、「ウォォ~!」と叫び、手を振り上げてこちらの存在を知らせたのです。そうすると、あちらも20mくらいむこうで動きをピタリと止めました。
 お互い、見えない状況で膠着状態が続きました。クマに遭遇した時の鉄則は、「刺激しないようにゆっくり退散」。死んだふりをしても効き目はありません。3人は大きめの声で話し続け、上へと急ぎました。

 歩きながら、「元々はクマの通り道に人間が道をつくってしまったんだ」と、1人が話しだしました。確かにそうなのかもしれません。「人間が歩くところをクマが横切る」のではないわけです。
 そこで、人間と自然の関係について考えさせられました。今の時代、「人間vs自然」、「人間vsその他の動物」という考え方がメジャーになっているような気がします。しかし本当は、人間は自然の一部であり、その理の中で生き続けるべきではないかと思います。「自然に返る」のではなく、「自然の一部であることを思い出す」。

 様々な分野で技術が発達した今の世の中にあっても、そのことが重要だと思いました。

 クマとでくわせば必死になります。農家や高齢者にとっては、作物を荒らす害獣でもあります。一昨年は人家付近での出没が多く、安全確保のために射殺されたクマも多いと聞きます。しかし本来は、クマを排除することに技術を使うのではなく、ともに生きていくことに知恵を絞り、技術を活かすことができないか・・・と思いました。

 様々な分野で技術が発達した今の世の中にあるからこそ、そのことが可能だと思いました。

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 登山道の入り口にある看板です(今回はここへ下りてきました)。
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by senang | 2006-05-21 02:26 | 【1】地球のリズム