<   2005年 12月 ( 31 )   > この月の画像一覧
雪原の足跡
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 今、遅ればせながら年賀状を作成しています。じっくりと時間をかけてデザインを考えることもなく、また、時間をかけたからといって良いデザインができるわけでもなく、結局はありがちな犬の足跡をモチーフにしたものに落ち着きました。それで、犬の足跡ってどんなのだったっけ?と、思い出してはみるのですが、なかなか釈然としません。絵に描いてみると、クマのようであったり、イタチのようであったり、はたまたタヌキと区別がつかなかったり。

 話は変わって、最近は雪原にいくつもの足跡がついています。一番わかりやすのがウサギ。ケン・ケン・パー、または、ケン・パーというような感じです。足跡を見て思ったのは、ウサギの後ろ足はとてもよく開き、ガッシリと雪や土を掻くことができるようになっています。きっと、ジャンプ力も凄いんだろうなぁと想像できます。
 それから、タヌキ。左右交互に点々と続いています。真上からよく見ると、足跡はかなり丸っこいです。そういえば先日、知り合いがタヌキも木登りをすると言っていましたが、こんな足で本当に木に登るのか、ますます疑わしくなりました。
 ネズミ(上の写真)。小さくてチョンチョンと跳ねるように、軽く雪に跡を残しています。足と足の間にしっぽを引きずった線がついていることもあり愛らしいです。足跡をたどっていくと、雪の中に続くトンネルにたどり着きました。冬は単調な純白の世界かと思いきや、ネズミは雪の下で縦横無尽に移動しているのかもしれません。
 その他、鳥の足跡もたくさんありました。大方はスズメかセキレイです。

 足跡から様々なことがわかります。動物の種類は勿論、その個体がどういう状態にあり、何をしようとしていたのか。また、雪の溶け具合やしまり具合から、そこを通った時間も想像することができます。

 「自分が生きた証(足跡)を残したい」という言葉をよく耳にしますが、敢えて残そうとしなくても、世の中には足跡なんて結構ついているものかもしれません。そして、後世に誰かが自分の足跡を見つけ、「あぁ、こいつはこんな生活をしてこんな仕事をしていたんだなぁ」と解読してくれるでしょう。
 もっともそれは、「足がつく」という例えもあるように、良いことも悪いことも含めてということになりますが・・・
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by senang | 2005-12-31 00:26 | 【0】センシブルワールド
センシブルクイズ 6
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門の上で睨みをきかせている者が誰か答えよ。

<参考>
 人の気のない谷を下ったところに小川があり、そこにかかっている小さな橋を渡るとすぐにこの門がある。門の向こうには、小道が続いているのが見える。
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by senang | 2005-12-28 16:29 | 【0】センシブルワールド
主観を滅して虹を見た時に
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 以前に虹のにおいを感じる人の話をしました。彼女にとっての虹は、視覚的にインプットされる情報のみならず、嗅覚にも訴えかけてくるものなのです。

 それはさておき・・・

 虹にロマンやファンタジーを感じる人もいれば、単なる景色の1つとしてとらえる人もいます。その違いが何かということを考えた時、自分はどちらなのかという問いも湧いてきました。しかし次の瞬間には、そんなことはどうでもいい、というより、どちらか一方に属するわけではないと感じ、その問いの意味を否定していました。
 実際には、ファンタジックな気分になる時もあれば、風景の1つとして感じる時もあります。むしろ、その差異をつきつめていく方が面白いのかもしれません。その差異は、人によって様々であると同時に、かなり主観的でもあります。また、状況や気分によっても差があります。
 個人的には、「当たり前」にそこにあるべき状態で虹がかかっている時は風景の一環として感じられ、やや「違和感を感じる」(=何となく当たり前ではない)時にファンタジックな気分になります。
 この「当たり前」という概念が主観的要素の最たるものなのです。当然ながら、僕にとっての当たり前と他の人にとっての当たり前は、完全に一致しません。言語やイメージによる共同幻想を形成できたとしても、何が当たり前で何が当たり前じゃないのかについては、特定の価値基準がなければ判断できません。
 その価値基準を限りなく客観的なものにしていった時、どのような世界が広がっているのでしょうか。「広がっている」といっても、どこかにびろ~んと広がっているわけではなく、自分の頭の中で展開している世界に過ぎないのかもしれません。

 そう考えながら改めて虹を見た時・・・
 赤~黄~青のグラデーションでできている1本の線が弧を描いて空中に浮いていて、その下には落葉間近の黄色や赤の葉を茂らせた落葉樹と常緑樹が混在している山があり、空は雨雲が途切れて光が差しているという、単なる情報の羅列のように見えてしまいました。さらに、虹に含まれる色彩の数や様相、弧の長さ、正確な円形ではないことなど、より詳細な部分に目がいきます。山の傾斜やくぼみ、雲の色や形についても同様です。
 情報の羅列をそれなりに受信した時、風景の一環だった虹が、自分の感受性に訴えかけてくるものとして意味を持ち始めました。それは抽象的なファンタジーとはちょっと異なる感覚です。そして、そこから虹も地球の一部分として意味を持っているという認識が芽生えていきました。
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by senang | 2005-12-27 12:08 | 【0】センシブルワールド
「人間・森林系の経済学 人間にとって自然とは何か」
 この連休中、村尾行一著「人間・森林系の経済学 人間にとって自然とは何か」を読んでいました。特に思うところあってというわけでもなく、どちらかと言えば、何となくというか、思い出したかのように古書を鞄に詰めて出かけた次第です。
 村尾氏の理論は、人と自然との関わりに関して、最近の養老孟司氏が唱えているような論調とかなり重複しています。ただし、村尾氏が本書を出版したのは今から20年以上前の1983年。さらに、村尾氏は林学(林政学)界出身の研究者ですが、当時、大多数の同業者(研究者)は村尾氏の理論にほとんど興味を示していませんでした。
 この人、20年早かったわけです。世が世なら・・・と、思わずにはいられません。

 僕がつたない感想を述べるより、重要な点を本文から以下に抜き書きします。これとて、さわりの部分でしかありませんが・・・

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 だから、私はいまこそ、森を造り育て、それを利用する営みを<経済の世界>に引きもどすべきだと思う。そうしてはじめて、「緑」が平和のシンボルたりえ、森林が国民の実生活と国土を守り支えうるのである。
 ことはドロドロとした生臭いレベルの問題であり、端的にいって「緑化」を経済的に支える仕組み、それを推進する生活的動因が形成されることが肝腎なのである。有閑マダムの一人よがりの慈善活動のようなものでは<現実>にはねとばされる。「草刈り十字軍運動」に対して私が反対はしないが、共鳴も感心もしない所以は-「十字軍」という呼称の先示したマンガ性を措くとしても-ここにある。ことは“精神運動”の次元ではない。
(18ページ)

 食糧飼料から各種加工原料までを短い生産期間で供給する農業を林内で営ませ、しかもこの農業によって育林作業を代行させる混農林業=「アグロフォレストリー」が切り札となる。だからFAO等国際的な農林業機関はつとにこれの実行化を強く提唱してきている。しかし、こうして提唱されている「アグロフォレストリー」なる概念が、いまのところまだ“哲学”としての域をあまり出ていない。
 ところが日本は、「アグロフォレストリー」を実践可能なものとして具体的に提示することのできる、先進国の数少ない一例である。
 というのは、「アグロフォレストリー」を、「混農林業」といった類いの生硬な訳語ではなく、常用日本語に置きかえてみれば、要するにそれは木場作りであり焼畑林業だからである。
(26ページ)

 だが本来、植物には自己栄養力・環境対応力が立派にある。だから、植物である作物も、今のような濃厚保育をしなくとも、それ自身が内有している生命力を健全に、素直に発揮させてやれば、立派に育つのではないか。
(30~31ページ)

 一括大量生産・大型機械の投入等は、伐採作業の能率を向上させる。しかし、伐採作業を、時間的にも場所的にも分散的な少量生産として行わねばならぬ。機械も、したがって小型のほうがよいことが多く、場合によっては昔ながらの人力自然力作業の方が便利・合理的なことがある。
 生産の機械化・大規模化に適合した作業条件をつくりあげることが合理的ではある。だが林業では、あくまでヤマに機械をあわせるべきであって、機械にヤマをあわせてはいけない等々。
(41ページ)

 生態系内では対立、抗争、相互破壊が渦巻いている。破壊が一度かぎりのものではなく、絶えず継続されうるような-それが生命・生存というもの、換言すると繰り返しの死が「生」で、一回かぎりの死が「死」なのだといえようが-緊張した動態的な均衡関係のアンサンブルが生態系だといってよい。したがって生態系は当然、変化する。
(54ページ)

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 村尾氏の論は、これから僕が行動しようとしていること、実践しようとしていることの規範になり得るものがあります。当然、上記の点にとどまりません。他には、土の形成過程とその重要性(代替がきかない)を意識すること、普遍的モデルを当てはめるのではなく現場主義・個別対応が最終的には重要であることをはじめ、過去には山の手入れや焼畑などの具体的な実践方法も示してくれました。
 何より、村尾氏が唱える焼畑林業の復権は「もやし隊」の礎と言えます。思い起こせば14年前、村尾氏は「山なんて焼いちゃえばいいんだよ」と言っていました。その一言は色あせるどころか、今さらながらますます新鮮に感じられます。今思えば、あの言葉に共鳴してしまったからこそ、今の僕があるのかもしれません。
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by senang | 2005-12-25 22:26 | 【0】センシブルワールド
しばらく出かけます。
記録的な大雪で日々雪と格闘しています。

今日から雪国を離れ、しばらく暖かいところへ出かけます。
25日の夜に戻ります。

出かけている間や冬休み中は、里山について勉強してみようと思います。
おっと、冬休みの恒例行事(?)、かまくらづくりも忘れてはいけませんね。
幸い、雪なら捨てるほどあるので、特大かまくらをつくってみます。

ということで、今年の冬は楽しめそうです。
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by senang | 2005-12-22 01:20 | 【0】センシブルワールド
センシブルクイズ 5
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山の中に列をなしてそびえ立つ物体は何か?
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by senang | 2005-12-22 01:12 | 【0】センシブルワールド
祝! 人口減社会
05年の出生率は1・25 厚労省の人口動態統計(共同通信 2006年6月1日)
<人口動態統計>出生率1.25、さらに低下(毎日新聞 2006年6月1日)
日本の人口、今年から自然減…予測より2年早く(読売新聞 2005年12月20日)

 これらの記事を凄く大雑把に要約すると、出生数を死亡数が上回り、今後は人口の自然減による「人口減社会」に突入するというものです。出世率の低下が、そのことに拍車をかけています。
 人口減少社会の影響としては、国の経済力低下、社会保障制度の維持が難しくなるなど、年金、医療、介護制度などの分野で問題が生じるとあります。
 また、1899年以来の統計で、人口が自然減となるのは始めてとありました。つまり、この100年あまりの間、人間は増え続けてきたということです。統計が始まって以来ということですので、少なくともデータで立証できるのは100年ちょっとということになります。
 この度の人口減少以前に、40年くらい前に始まった高度経済成長期の影響により、人口の都市部への流動が進みました。経済力低下や社会保障制度の維持が難しくなるより先に、地域の活力が低下しているという「叫び」が過疎地域の枕詞となっています。

 人口減少はそんなに嘆くべきことでしょうか?
 そもそも、今の人口が多すぎるのです。100年前、つまり明治時代頃から、日本の人口は加速度的に増えました。それが今年で頭打ちになったに過ぎません。
 これからは、100年前の水準に戻していこうという発想の方が必要なはずです。拡大志向はそろそろ終わりにして、少ない人口でより良い社会をつくるという持続路線を主要な選択肢に組み込むことが大事です。
 だいいち、化石燃料を使わないとすると、今の人口では多すぎるわけです。人間を今の10分の1くらいにしなければ、閉鎖型循環系である地球のエネルギーフローの中ではやっていけないわけです。このあたりの考え方については、松井孝典著「宇宙人としての生き方―アストロバイオロジーへの招待―」を参照ください。

 局所的・過渡期的に経済力が低下したとしても、社会保障制度に問題があったとしても、しっかりと受け入れましょう。多少の痛みは伴うかもしれません。でもそれは、長い目で見れば必要なことですし、人類にとってはむしろ必要な道だと思います。地球規模の視野を持った時、そう感じることができると思います。
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by senang | 2005-12-20 20:41 | 【0】センシブルワールド
You Spin Me Round
 昨日、頭の中でずーっと DEAD OR ALIVE の You Spin Me Round (Like a Record) が鳴っていました。かれこれ20年以上前の曲で、通常なら聞くはずのない、いわゆるディスコミュージックです。というか、ディスコミュージックのレコードを持っているのはこれだけ。他のこの手の音は、全て同じに聞こえてしまいます。
 それで、この曲のサビの部分が妙に気になってしまいました。"You spin me right round, baby right round like a record, baby right round, round, round”というくだりです。思わず、誰かがクルクル回りながら(自転)、自分の周りをクルクル回っている(公転)している様子を思い浮かべてしまいました。
 それは、さながら地球と太陽の状態を表しているようでもあります。歌詞どおりだと、太陽から見た地球を表現していますね。ただし、地球から見た太陽を表したら、このとおりではないでしょう。
 主観的に見るのか客観的に見るのかによって、同じ物事でも表現が大きく異なると感じました。You Spin Me Rouond になぞらえて、地球から見た太陽を表現すると、どんな歌詞になるのでしょうか?また、地球から見た人間を表現すると、どんな歌になるのでしょうか?そんな音の新ジャンルを、センシブルに開拓していくのも面白いかもしれないと思いました。
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by senang | 2005-12-20 13:21 | 【0】センシブルワールド
山頂のブナ林が伝えてくれたこと
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 ブナの木の寿命は約80年。個体差はありますが、だいたい人間とほぼ同じ期間生きていることになります。
 80年の間に、十数mもの高さに成長します。尾根筋に生えているものはまっすぐに伸び、斜面に生えているものは斜めになりながらも天を目指し、風当たりの強いところに生えているものは低く横に伸びていきます。

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 風雪に耐えて数十年を生き延びてきても、大きな台風や大雪でぶっ倒れたりします。当然ながら、木なので自分で起きあがることはできません。そのままの格好で芽や枝が空へ向かって伸び続けます。倒れても転がっても、やはり天を目指します。

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 春は芽吹きの季節。毎年4月上旬になると芽を出して葉が茂ります。それはそれはキッチリと測ったように正確です。「今年はやめとこっか」なんてことはありません。そして、約半年の間、太陽の光を受けて光合成をし、秋になると葉を落とします。
 何百年、何万年、いえ、それ以上の時間かもしれません、ブナ達は休むことなくそんなことを繰り返してきました。

 長い長い時間をかけて、ブナ林は生えて枯れてを繰り返し、咲いて散ってを繰り返してきました。その間のわずかな1コマとして、1つのブナの木の80年が組み込まれています。
 人間の寿命は約80年。その間に思ったこと、行動したこと、つくったものは、長い長い時間のわずかな1コマかもしれません。些細なことかもしれません。それでも一個人にとっては、倒れたり転がったりすることは一大事です。社会の中では些細なことでも、それがきっかけとなり、枯れてしまうこともあります。

 倒れても転がっても、ブナと同じように天を目指したい。そのために必要なことや必要な人を見つけ、根を張っていくことの大切さを感じています。
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by senang | 2005-12-19 09:37 | 【0】センシブルワールド
キノコの群れが伝えてくれたこと
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1人で頑張らなきゃならない時もありますが、仲間がいる時もあります。
なれあってるだけでは不毛ですが、支え合えれば強くなれます。
そして、毎年同じ時期になると、何度でも何度でも生まれ変わってきます。

所詮は解釈のしかたなのかもしれませんが、
自然のリズムから我々の生き方について学ぶことは多いです。
そう感じた時、やっぱり我々は地球の中で生かされていることに気づきます。
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by senang | 2005-12-18 20:19 | 【0】センシブルワールド