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都市部と田舎 -「人間圏」の中で細分化されたエリア-
 今日、ある町の方とIターンについて話しました。県境の過疎地にあるその町では、かつて子連れのご家族が都市部から移住してきたことがあったそうです。その家族は、喧噪のないところでのびのびと暮らすのが夢。すがすがしい朝は窓辺に立ち、窓を開ければ山から太陽が昇ってくるのが見え、そして週末は子供を連れて遊園地へ行きたい・・・ そう思って田舎へIターンしてきたとのことでした。

 田舎で遊園地...!?

 人様の夢をとやかく言うつもりはありませんが、現実離れしたものも中にはあります。ことIターン者については、自然、田舎、農業などに対して大きな夢と理想を描くのは良いのですが、それがあまりにも現実とかけ離れている方も多くいらっしゃいます。非現実的なスペースを意図的に演出する遊園地などは、まず田舎には存在しないでしょう。あればあったで、人が来なくて採算がとれないか、場末の廃墟のような状態になっているか、運営者の趣味がきいたシュールなものになると思います。
 遊園地はともかくとして、大なり小なり理想と現実のギャップが存在します。人づきあいに疲れたから田舎に来たのに、田舎の方が人間関係が濃いとか。大自然の中で暮らしたいと思っていたのに、田舎の人の方が環境意識が低いとか。車がなければ生活していけないということを知らなかったりとか。農業をしたいのに、農地法のために新規就農者はすぐに農地が取得できないとか。
 島根県の場合、「田舎暮らしがしたい!」「農業がしたい!」という目的を持ってやってきて、定着するのはだいたい5割。あとは生活していくことができなかったり、理想と違っていたために他所へ行ったり、出戻ったりという結果になっています。

 同じ日本人でも、田舎と都市部では意外と意識差が大きいのが実態ではないでしょうか。現実の問題として、「人間圏」の中でもエリアが細分化されていると言ってもよいかもしれません。
 でも、田舎にとっては都市部が、都市部にとっては田舎がなければ存立できません。どちらかが欠けると日本は成り立たないというわけです。このことについて養老孟司氏は、都市部を脳、田舎を身体に例えて表現していますね。脳と身体、どちらかが欠けても人間は生きていけない、と。
 良くも悪くも、都市部と田舎が分化してしまった現代。その現実を受け止めて、田舎も良い意味で変わっていかなければならないし、都市部も現実を知らなければならないでしょう。これからの時代、お互いの理解は不可欠です。

 そうそう、冒頭に紹介したご家族は、また他のところへ越していったそうです。「この町には遊園地がないから」という言葉を残して・・・
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by senang | 2005-11-30 22:34 | 【0】センシブルワールド
人間として生きるとは
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時々、真実とは何なのかわからなくなることがあります。
目の前の道がどこに続いているのか不安になることがあります。
まだまだ勉強不足&修行不足です。

そんな時に立ち返るところがあります。
それは、特定の場所ではなく、誰かのそばでもなく、過去でもありません。
答えは自分の中にあります。

既成概念や経験を捨て去り、自分自身でつくってしまった常識を疑うことから始めます。
そして、少しでも真実に近いと感じる部分を探し、それを注意深く見つめ、考えます。
どれだけ真剣になれるか、どれだけ集中できるかが大切です。

地球や宇宙については、まだまだ知らないことだらけです。
一生かかっても全てを理解することはできないかもしれません。
だから、どんなに学んでも、どんなに考えても、十分すぎるということはあり得ません。

人間は地球上の生物の中では特異な存在で、地球に迷惑をかけることもあります。
その一方で、学んだり、考えたり、真実を探そうとする特質も兼ね備えています。
地球の生物全てが何らかの使命や役割を持っているとすれば、
人間の場合のそれは、学び、考え、真実を探求することではないかと思います。

だから、学ぶことを拒否し、考えることをやめ、真実の探求をやめることは、
人間としての役割放棄(=死)を意味しています。
あとは獣のようにただただ生きて、滅びていくしか道は残されていないでしょう。

時々、真実とは何なのかわからなくなることがあります。
目の前の道がどこに続いているのか不安になることがあります。
それでも、勉強し、修行し、行動するチャンスが残されていると信じています。
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by senang | 2005-11-29 21:15 | 【0】センシブルワールド
トノサマバッタ
緑の背景に茶色いトノサマバッタ。
茶色い背景に緑のトノサマバッタ。
コントラストを楽しんでいるかのようです。

ちょっとくらい周囲と違和感があっても、また、どこへ行ったとしても、
バッタだという本質を失わなければ、それでいいと思います。

もっとも、肝心のバッタは、そんなこと気にしていないでしょうね。

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by senang | 2005-11-29 08:09 | 【0】センシブルワールド
「もやし隊」を始める前に
 「もやし隊」を始める前に、どれだけの環境負荷が発生するかを考えなければなりません。薪を焚いて暖を取ること、炭を焼いてサンマを焼くこと、焼き畑をすることなどを例に取ってみましょう。木材資源がどれだけ必要か、どれだけの草が燃やされるのかなどを試算する必要があります。
 そこから考えなければならないことはたくさんあります。まず、燃やすことによってどれだけの二酸化炭素が発生するかということ。そして、発生させた二酸化炭素を再び光合成によって固定させるために必要な植物の量も試算してみましょう。さらに、燃やした分だけ必要な緑を増やすことを掟にして、山の手入れを行います。そうやって、基本的な持続型の循環系をつくります。
 この循環系には限度があります。養える人間の数でそれを試算してみましょう。10haの山でどれだけの人間が暮らしていけるのかということを考えます。逆に、1家族や1集落が暮らしていくのに必要な田畑や森林の面積を導き出すこともできます。これによって、自ずと環境と人間のバランスを見いだすことができます。

 こうやって、現代に火の文化を復活させたいと思います。ただし、現代における火の文化が、新たな意義と命題を持っていることも自覚しなければなりません。それは、木材資源によってどこまで化石燃料を代替することができるかということに他なりません。
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by senang | 2005-11-28 21:51 | 【0】センシブルワールド
年明けから「もやし隊」始動!?
 言うまでもなく、人間の生活にとって、火はなくてはならないものです。毎日、何らかの形で火と接しています。一番わかりやすいのは食事ですね。調理には火が欠かせません。自分で火を使わなくても、口にするものは、直接的または間接的に火を通したものがほとんどだと言ってもよいでしょう。
 火は、とても身近なもので、生活の至るところに活用されています。それをもっと身近にしようという試みが「もやし隊」。最初は、焼き畑や山焼きなど、農地森林を含む里山の手入れに火を使おうと思い立ちました。でも、せっかく火と接するのなら、もっと楽しもうというように考え方が変わってきました。
 例えば、身近な料理にちなんで言えば、炭を焼いて料理をしよう、オーブンをつくってパンやピザを焼こうということから始まります。もっと手軽に、七輪でサンマを焼こうということでもOKです。料理をするかどうかは別として、たき火というシンプルな作業からでも、学ぶべきことがたくさんあります。そもそも、マッチやライターがない場合、どうやって火をつけるのか...!?
 「もやし隊」は、火を通して人間の生き方を学び、自然との関わりを肌で感じようという試み。ただし、火をつけても良いところと、火をつけてはいけないところはしっかりとわきまえておかなければなりません。場所を考えずにたき火や山焼きをしたばっかりに、何百年もかかってできあがった山が一瞬のうちに消失してしまうことにもなりかねませんからね。
 年明けあたりから「もやし隊」の遊びバージョンを始めてみようかなぁと思っています。野外でピザでも焼いて、かまくらの中で食べながら、雪がとけたら炭焼きしようなどと計画を練るのもいいかもしれませんね。
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by senang | 2005-11-28 20:34 | 【0】センシブルワールド
散策
 昨日、息子と初老の女性と散策をしました。牛舎に寄って牛を見て、視界が開けた牧草地の脇を通り、山道を抜けるルートで、ゆっくり歩いて1時間くらいの手頃なコースです。
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 山道に入った途端、起伏に富んだ地形と晩秋の木々に視界が遮られました。目に映る色、風の音、鳥の種類(鳴き声)も一気に変わります。
 僕が最も大きな変化を感じたのは、匂いと湿度でした。匂いは、ちょっと腐敗した感じのもので、春先のそれとはかなり異なっています。それはきっと、落ち葉が堆積して土に帰っていく匂いだったのでしょう。湿度は、雨上がりのような湿り具合がずっと続いていました。実際、落ち葉や、木についている葉や、地面が濡れていました。
 匂いや湿度は、木々とその代謝の過程で出るものだと思います。そのようなものを特に敏感に感じることができたのは、最近フィトンチッドや森林浴に興味を持っていたからかもしれません。それで、匂いに身を任せていたら、山を歩くと身も心も軽やかになる・・・という言われている感覚を、かなり明確に体感することができました。

 息子は走り回り、何か叫んだりかけ声を発しながら、棒きれを剣にして小道沿いに立っている枯れた草を切りまくっています。そんな光景を見ながら、一緒に歩いていた女性が言いました。「昔は歩くなんてまっぴらだったけれど、最近は歩くのが大好きになったんです。だって、気持ちいいでしょう!」と。それで、よく家の回りを歩こうとするらしいのです。でも、「ただブラブラ歩いていると、『あの人は病気なんだ』って噂されるんですよねー。」とのこと。なぜなら、最近はどこかに病気を持っていたりする人がにわかにウォーキングを始めたため、“歩く人=病人”という先入観が定着しつつあるということです。
 「病気じゃなくても、歩いてもいいじゃない?」と彼女は続けます。そして、「何も大袈裟な設備なんかはいらないから、ちょっと歩ける道だけつけてくれればいいのにね。そうすれば、少ないお金で医療費を下げることもできるんじゃないですか?」とおっしゃいました。

 子供はチャンバラ、年配の方はウォーキング、人によっては、食べ物を探したり、虫を探したり、鳥を探したり。それぞれのニーズに沿った山との関わり方があります。わざわざ健康維持ということを意識しなくても、山で遊んだり楽しんだり食べたりすることを通して、自然に健康になっていくことができると思います。
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by senang | 2005-11-28 10:35 | 【0】センシブルワールド
「子どもの居場所」より道草を奨励しよう
 純さんと小学校の統廃合の話をしていた時。「私ね、この町で学校が1校になったら残念だなぁと思うことがあるの。」と言いました。学校が遠くなるとスクールバスで登下校するようになり、道草ができなくなるからというのがその理由です。そして、「昔は、学校へ行くのは30分だけど、帰り道は2時間かけて帰ってきてたでしょ。その途中で、川にいるアヒルをいじめたり、草を抜いて食べてみたり。そういう体験って、大事だなぁって思うのね。」と続けます。
 僕達が子供の頃、身の回りのものを、ごく自然に、五感で感じていました。そこらへんにあるものを使って遊びを開発し、遊びの中に掟をみつけ、上級生と下級生の人間関係から社会のルールを学び取っていきました。

 今は、「子どもの居場所」と称して子供を集め、大人が引率して野山に出かける世の中。かつては当たり前に覚えていった野山での遊び方を、今は大人が手取り足取り教えています。子供自身がそれを望んでいるのかどうかもわかりません。ヘビやハチがいる山へ行くより、家でテレビゲームしてた方がマシだ...と思う子供もいることでしょう。
 確かに、最近の子供の生活においては、自然だけではなく、様々な環境に触れることが少なくなったと思います。朝、家を出て、知らない人と話しちゃダメだと指導されているために通学路沿線のおばちゃんに挨拶もせず、閉鎖された空間で閉鎖された教育を受け、放課後はどこにも寄らずに家へ帰ってくるという生活。スクールバスで登下校しなくても、道草や遊びの中から自然との関わり方や掟を学ぶことがほとんどありません。

 そうそう、昨年のことになりますが、「子どもの居場所」事業の展開に合わせ、学校関係者の研修会がありました。その講師をした折に、僕なりの提案をさせていただきました。居場所をつくるのなら、学校帰りに道草ができる場所、好きな時にフラリと立ち寄ることのできる場所、地域の人がいて遊びや知識を教えることのできる場所、誰でもワイワイガヤガヤできる場所をつくるべきだというのが提案の趣旨です。
 それに対して、「今の教育方針は、寄り道してはいけないということになっているので、そういう場所をつくることはできません。」と、先生らしき人に指摘されました。「だから、それを打破しましょう。」と申し上げましたが、「いえ、できません。」の一点張り。結局は平行線のままでした。

 感受性の高い子供の時期に、自然と触れることは大切だと思います。自分が考え、自分の手で触ったものの発見や驚きは忘れないでしょうし、草木を抜いたり動物を追いかけ回したりということについても、どこまでやっちゃっていいのかという限度を身体で覚えるでしょう。
 そのためには、道草が一番だと思うのです。つくられた場所ではなく、非現実の場所でもなく、通学という日常生活の延長線上で自然や社会を学ぶことができるところが良い点です。
 または、自分が食べる米や野菜くらいは自分でつくるというプログラムを子供の頃から実践するのも良いかもしれませんね。学校教育のカリキュラムに位置づけてもよいくらいだと思います。

 地球のリズムを感じることのできない子供が増えていることは、国も親も地域の人も感じているようですね。しかし、それを危惧するのであれば、わざわざ「子どもの居場所」なんてものを設置しなくても、みんなで力を合わせ、道草を堂々と奨励できる社会をつくる方が重要だと思います。あるいは、少しくらい学力が下がっても、田畑に出る時間を増やす方が、長い目で見れば日本社会にとってプラスになるはずです。
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by senang | 2005-11-27 21:45 | 【0】センシブルワールド
多様性と普遍性
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 色々な人種がいて、その分だけ言語や文字があります。宗教が違えば、風習やしきたりも違います。同じ人間なのに、なぜこんなに違いや多様性があるのかなぁと不思議になることもしばしば。
 多様性は、環境へ適応していった結果ではないかと思います。微妙な差異に対して忠実に対応していったために、今の状態があるわけです。
 環境とは、自然環境だけを指しているわけではありません。文明の出発点には、手つかずの自然環境があったのかもしれませんが、今となっては地球上に手つかずの自然を求める方が難しいと言えるでしょう。
 人間は原初の環境に適応し、それに働きかけます。働きかけ続けることによって、環境が変化します。そしてまた、少しアレンジされた環境に適応して働きかけていく・・・というように、これからも人間と環境がともに変化や分化をしていくのかもしれません。

 人類の起源がアフリカにあるということは遺伝学的にも立証されています。この説に基づけば、アフリカを出発した人類が、ヨーロッパの環境、アジアの環境、北や南のアメリカの環境、そして日本の環境に適応し、多様化していったということになります。そう考えると、人類は何ともしぶとい生き物だということを改めて実感します。

 また一方で、このように考えることもあります。
 人類の起源が同一であるとすれば、地球上の環境に適応して多様化・分化していっても、人類共通のもの、普遍的なものは持ち続けているのではないか?生物として生きていくための基本機能はその1つです。これに加えて、人類の歴史の中で、地球の普遍的な要素を環境から学び取ってはいないのか?そう考えるのは、微細な環境の違いも、元々は地球のリズムにのっとって存在していると思うからです。

 多様性の裏側にある普遍性。宗教や文化は違っても、同じ地球に生きる人間として、そんな普遍的なものを多くの人たちとわかちあえることができればいいですね。
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by senang | 2005-11-26 16:05 | 【0】センシブルワールド
小規模農業 その2:化石燃料に頼らない農業
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 耕耘機が登場する前は牛が田を耕していました。田植え機が登場する前は早乙女が稲を植えていました。コンバインが登場する前は鎌で稲を刈り、天日干しにして米ができていました。最近、「○○の米は美味い!」と言われることがありますが、昔ながらの農法でつくった米には勝てません。
 高度経済成長期とともに、高い機械を使って農業をするようになりました。農業以外の分野で現金収入が必要になり、そのため稼ぎに出る必要が生じ、農業に片手間で取り組まざるを得なくなった社会背景を考えると、それは仕方のないことかもしれません。楽に農業ができなければ食べていけないというのは、時代の流れなのかもしれません。
 しかしまぁ、石油がなければ成り立たない農業って何なんでしょうね。大抵の場合、排気ガスの臭いがする田んぼでつくられる米を食べているわけです。米の産地でも例外なく農業機械が唸りをあげています。

 化石燃料に頼らない農業が実現するとすれば、やはり小規模農業になります。その分、手間や労力はかかります。効率優先論からそれを否定するのではなく、小規模農業でもやっていけるだけのライフスタイルを組み立てるべきじゃないでしょうか。それはきっと、今とはかなり異なるものになることでしょう。効率が落ちるということは収量が減ることに直結しますので、養える人数も少なくなります。
 今の段階では理想論かもしれませんが・・・ 春先には牛がいて、秋には大量の赤とんぼが舞う田んぼでできた米が食べたいですね。
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by senang | 2005-11-25 19:21 | 【0】センシブルワールド
小規模農業 その1:半径5kmプロジェクト
 今、小規模な農業というものを考えているところです。

 昔から疑問だったのですが、町内にはキュウリをつくっている農家、ナスをつくっている農家、マメをつくっている農家などがたくさんいます。その一方で、町内のスーパーへ行くと、県外のキュウリ、ナス、マメなどが並んでいます。しかも、都市部で買うより高い!
 これ、どういうことなんでしょう?どうも納得がいきません。3kmしか離れていないところで栽培されているキュウリはどこへ行っているのでしょう?なぜ高い輸送コストをかけて、県外産のキュウリが運ばれてくるのでしょう?何のことはない、マス流通の不合理で、田舎の方が高いのは、産地(田舎)から都市部の市場へ出荷され、そこからさらに遠方の消費地(田舎)へ運ばれるという構造になっているからに他なりません。手間と時間とお金がかかっているわけです。
 まてよ、流通に時間がかかっているということは、スーパーに並んでいるものに限って言えば、都市部に比べて鮮度が低いというわけですね。しかも高い値段で売っている。・・・やっぱり納得がいきません。
 そこで、せっかく農産物を身近なところでつくっている田舎なら、「極力半径5km以内のものを食卓へあげよう!」運動を展開してみてはどうかと考えています。例えば、このあたりでは、野菜一般、米たくさん、牛肉、牛乳が揃います。・・・さすがに海の魚は無理ですね。
 5kmでは揃うアイテムが少ないのなら、10kmまでヨシとしましょう。それでもダメなら、半径30km・・・という具合に、広げていっても構いません。とにかく、身近なところにあるものから優先的に食卓へあげようという試みです。
 そうすると、農業の形態は、単一のものをたくさんつくって出荷する産地形成型ではなく、少量他品目型になるはずです。つまり、小規模農業が見直されることになるわけです。
 グローバルな視点で見ても、理にかなったことが言えます。どんな保存用薬品を使っているのかわからない中国産シイタケより、家の横を流れる川の上流域で育った原木シイタケの方が良いわけです。BSEの危険を心配しながら美味しくない牛肉を食べるより、何を食べて誰が育てたかがわかり、しかも美味しい和牛肉を食べた方が良いわけです。

 半径5kmにこだわらなくても、できるだけ近いところのものを食べたいですね。海のむこうから重油をたくさん使って運んでくるものが高級だとは限りません。そして、日本の風土と土壌に住む以上、日本でできたものの方が、身体に馴染み、センシブルな感覚を高めてくれると思います。
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by senang | 2005-11-24 23:18 | 【0】センシブルワールド