カテゴリ:【2】自給について( 25 )
垂れ流し下水システムだから、生活排水に気を遣う
 我が家には下水道がありません。正確には、下水道が近くまで埋設されていません。下水道をつけるのは町の仕事ということで、現在あちらこちらで工事が進められています。
 合併浄化槽などがあればまだ良いのですが、我が家にはそれすらもありません。それでも生活すれば水を使います。そこで、普段使われている水がどこをたどってどこへ流れていくのかを調べました。
 炊事場や風呂場の水など、全ての生活排水は家の裏の小さな溝に流れ込みます。その溝は小さな池につながっており、そこで少し自然浄化されます。池は水路につながっており、地中の管を通って溜桝(五右衛門風呂を再利用したもの)に注ぎ込みます。そこが沈殿槽のようになっており、再び自然浄化されます。そして、さらに管へと流れていき、小さな用水路に落ちて家の敷地を出ます。この小さな用水路は、農業用水としても使われている他、しばらく流れていくと町の主要河川に接続しています。
 つまり、我が家は昭和30年頃につくった水循環のシステムそのままというわけです。前の主もこの水の流れを利用して数十年間住んでいました。

 しかし、これではもろに垂れ流しです。

 排水が田んぼへ回され、ひいてはその米を食べているわけです。我が家は見事な循環系の中で生きていると言えますが、だからこそ水を汚さない試みが一般家庭よりも重要になります。そこで、排水を出す方に気を遣いました。まず、富栄養化の原因となる栄養価の高い炊事排水は出さないようにしました。例えば、カレーを食べた後、ルーがべったりついたお皿を台所で洗うのではなく、流すものを極力なくします。もう少し気温が上がれば、コンポストなどで残飯処理をしようと考えています。さらに、市販の洗剤を使わないようにすると同時に、EMを利用した石鹸を炊事でも風呂場でも使うようにしました。

 余談ですが、EM石鹸は妻が自作しています。EM石鹸については、愛媛県の宇和島市で「海を汚してはならない」ということで漁師が立ち上がり、石鹸づくりと使用を普及した事例があります。そこの活動を参考に、こちらでも石鹸づくりを始めました。

 下の写真は、五右衛門風呂の溜桝に住むヤゴです。このヤゴの他、もう少し大きくていかついヤゴも数匹いました。水は決してきれいだとは言えませんが、何とかヤゴが生息できる状態を維持しています。
 暮らしが水の循環の中にあり、水の循環を生み、生活することでビオトープの一部をつくりあげることができればいいなと感じました。

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by senang | 2007-05-10 20:02 | 【2】自給について
人の意識が変わる可能性はあるのか?
 昨夜、妻と一緒に核拡散防止や核兵器廃絶に湯川秀樹氏が力を注いだという趣旨のテレビ番組を見ていました。被爆国の物理学者である湯川氏らが世界へ向けて核廃絶を訴え続けても、各国は核を放棄するどころか一層軍備を強化し、実験を繰り返していきます。その結果として今の世の中があります。
 ご承知のとおり、核兵器はあらゆるものを根絶やしにします。人間や人間社会だけが滅びるのならまだ良いのですが、地球に対しても然り。環境をことごとく変えてしまった後も汚染が残留します。しかし、湯川氏らが「人間と核は共存できない」というシンプルで当然のことを30年間言い続けても、各国はそれぞれのエゴのためにそれを聞き入れませんでした。その時点で、「国家が正しい」「社会が正しい」という“ごく一般的な”考え方は、明らかに間違っていると言わざるを得ません。番組中のインタビューで、「真実を貫くことのできない人の世は複雑怪奇だ」という趣旨の話があり、まったくそのとおりだと感じました。

 30年経っても全く変わらなかった人間全体としての有り様が、これからの30年や50年で変わるものでしょうか。あるいは、100年経てば変わるものでしょうか。これは核問題だけにとどまらず、人間の価値観や考え方、ひいては行動全般に至る全てについて言えることです。
 これについて、僕は「非常に低いが、可能性がないとは言い切れない」ということを感じています。可能性が非常に低いというより、正確にはゼロに近いということになります。妻もほとんど同様の意見のようですが、「人間全体としてやっていることは何年経っても変わらない」というきっぱりとした見解でした。

 僕は、今後20年程度を目途に社会の仕組みや生き方をガラリと変えることに成功しなければ、人類に未来はないと考えています。今この瞬間も、人口の爆発的な増加に伴って資源収奪と環境汚染は加速しています。資源供給と排出物浄化の許容量である「環境容量」の中で生きる仕組みが不可欠であり、そのために資源の自給とライフスタイルの抜本的な転換をしなければなりません。そのラストチャンスがあと20年そこそこというわけです。

 核をめぐる国の姿勢を引き合いに出すまでもなく、自分の将来を「国が何とかしてくれる」「国の責任だ」「社会が悪い」と人任せにしていると、国や社会とともに滅び去るでしょう。数十年で大衆や体制の意識と行動が変わらない限り、人間社会の破綻は明白なものとなっていきます。
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by senang | 2007-05-07 10:43 | 【2】自給について
今後の20年を考える その3 水の確保が最重要
 食糧生産に農業機械は欠かせません。農業機械は石油で動いていますので、エネルギーが欠かせません。エネルギーは化石燃料からバイオエネルギーへの転換が進むでしょう。そして、食糧とともにエネルギー作物を栽培するには水が欠かせません。食糧とエネルギーの両方を農業で賄おうとすると、これまで以上に水を必要とします。
 以上から、「食糧<エネルギー<水」という図式が成り立ち、水の確保がかなり重要であると考えられます。
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by senang | 2007-05-02 08:50 | 【2】自給について
今後の20年を考える その1 破綻の兆し
 じわじわと人間社会に破綻の兆しが迫っていることを感じます。「風が吹けば桶屋が儲かる」の論法のように聞こえるかもしれませんが、あながちフィクションではないところが怖いです。今年の極端な雪不足=水不足は、これにかなり真実味を与えています。

   世界規模で人間が増え続ける
    ↓
   水需要が増す
   食糧需要が増す
    ↓
   水が汚れる
   温暖化も進む
    ↓
   水不足になる(国連は20年後に深刻な水不足を指摘しています)
    ↓
   農業ができなくなる(収穫量が低下する)
    ↓
   食糧難になる
   バイオエネルギーの生産も低下する


 資源の大半を輸入している日本の現状を考えると、これに輪をかけて危機感を募らせてしまいます。

   諸外国で食糧やエネルギーが足りなくなる
    ↓
   食糧・エネルギーの輸入が厳しくなる(または価格が高騰する)
    ↓
   他国よりいち早く破綻する

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by senang | 2007-04-27 17:49 | 【2】自給について
食糧難になったらどうするか?
 先日、知り合い達数人でタケノコを掘りに行きました。順番に掘っていたのですが、どうにも要領の悪い人がいました。タケノコをざっくりと切ってしまわないように、また、後で掘り起こしやすいように、本体の周囲を先に掘るんだよと、みんなで教えながらワイワイとやっておりました。
 その時、冗談交じりに「食糧難になったら、あんたが一番最初に飢えるね」という声があがりました。「わはは、そうだねー」という周囲の相づちを受け、その人は「わたしゃ、そうなったら真っ先に都会へ逃げるもん」と返しました。続けて「食糧は都会へ行って買えば手に入る」という内容のことを言ったのですが、それは冗談で言ったわけでなかったようです。

 そんなやりとりを経て、「食糧難になったらどうするか?」という問いかけに対して、日本人はどう答えるのかが気になりました。みなさんはいかがでしょう?
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by senang | 2007-04-24 22:15 | 【2】自給について
エネルギー効率から家族の適正規模を考える
 学校が春休みの現在、僕以外の家族はじいちゃん&ばあちゃんのところへ帰省しています。僕1人の生活がしばらく続いています。
 1人だと生活にかかるコストが低く抑えられるものもあります。人があちらこちらの部屋に分散していないので、照明は僕がいる部屋だけで済みます。調理は1人分の食事をささっとつくるだけですので、必要なガスは普段の3分の1程度です。洗濯に要する水も洗面の水も少なくて済みます。

 ところが、何人いても消費するエネルギーの量にあまり変化のないものがありました。ストーブの薪と風呂の薪です。
 我が家は4人家族です。1人で部屋にいても4人で部屋にいても、暖める空間の容積は同じです。1人だからといって薪が少なくて済むわけではありません。また、1人で風呂に入るとしても、風呂のお湯が4分の1ではおしりしか暖まりません。

 エネルギーの消費量は、人数に比例して変動するものと、部屋や湯船など体積・容積に比例して変動するものの2種類あるということに今更ながら気づきました。

 「資源の有効活用」+「生活に必要な作業をこなす人数」という観点から、生活の最小ユニットには適正規模なるものがあるのかもしれません。
 それは、人数は勿論のこと年齢構成も大いに関わってきます。大人数いても全員が高齢者であれば、力仕事に支障をきたします。子育て真っ最中で働き盛りの若者ばかりだと、全員が仕事と子育てに追われて家のことが何もできなくなってしまいます。

 生活の最小ユニットを家族(世帯)と想定してみましょう。自給生活は、子供が幼い核家族や高齢者のみの家族(独居を含みます)にとって負担が大きいと感じます。3世代家族など年齢層が多様で人数が多いという状態が最も安定しているのかもしれません。
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by senang | 2007-04-04 01:31 | 【2】自給について
design & entertain
 「自給にはマルチ性が求められる」という見解に達しつつ、生活まわりの様々な作業を手がけています。作業に充てる必要が思っていた以上に多いと感じています。例えば、薪を運んだり置く場所をつくったり、家の中に仕切りを立てたり、破損している壁に覆いをしたり、作業に使った資材を置く場所を確保したり。時間がない中、急ぐものはどうしても「とりあえず」と急場しのぎになってしまうこともしばしばで、最近は見てくれは後回しで最低限の機能さえ確保できれば良いという状態が続いています。
 同時に、先人は生活すること、つまり生存に必要な作業に生きている時間のほとんどを費やしていたのではないかと感じています。当然ながら、生きるために働いているのは、ひと昔前の人だけではなく、現代人の大半もそうだと思います。中には働くために生きている人もいるのかもしれません。しかし、その仕事は勤めという形によって段々と生存から遠い作業となっていき、極限的には「生活臭のしない人」がもてはやされたりもします。
 生活臭のない人、言い換えれば生存のスキルを持たずに生活する人は、何となく嘘くさいなぁと思ってしまいますが・・・。

 話を戻しましょう。

 個人的な問題として、時間的にも精神的にも余裕がないという状況に陥ることが最も良くないと感じています。その表れが、急場しのぎの「とりあえず」となって露見します。自給的生活を実現させようと試みてはいますが、思いのほか作業がたくさんあり、その作業に追われながら余裕をなくし、いつもムッツリした表情で生きるのは本意ではありません。
 なので、最近は楽しみながら生活するということが重要だと感じるようになりました。それを実現させるために、「生活をデザインする」ということを心がけたいと思います。デザインとは、家具や大工仕事に用いる個々の部材の芸術的表現などにとどまらず、暮らしぶりそのものをとらえ、楽しめるものをつくり、必要な作業を進めることを意味しています。そして、作業の中にデザイン性を盛り込むことは、「とりあえず」でバタバタとやっつけ仕事をするのではなく、心に余裕を持って仕事をすることになります。

 こう書いていて思ったのですが、これはもてなしの心にも通じるようです。自身が生きることに手一杯の状態では、来訪者を十分にもてなす作業にまで意識が向きませんし、そのための作業もできません。
 例えば、玄関まわりに作業資材を雑然と積んだままにしておくのではなく、片づけて人を迎える仕掛けをつくることは、心配りの表れでもあります。そんな空間演出も暮らしのデザインの1つです。

 言うなれば、生活は「design & entertain」。

 自給的生活においてもデザインともてなしができない状態にあるならば、好ましくない状態と言えるのかもしれません。そんな時は、あらゆる作業を進めないという割り切り方も必要です。経験上、無理に進めると良くないような気がします。
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by senang | 2007-03-05 09:45 | 【2】自給について
「買えば済む」という生活はいつまで続くのか?
 昨夜、広島県と岡山県の県境にある山間部の地区で、地元の方と話をしていました。大雑把に言えば、これから田舎はどうなっていくのか、ワシらはどうすればいいのかという話題でした。その時に紹介されたエピソードにとても印象的なものがありました。
  ↓
 大阪行きの夜行バスに乗っていると、大阪在住とおぼしき乗客たちが交わす会話が耳に入ってきたそうです。彼らは、「米がなくなったら外国から買えば済む」「日本に農家はいらん」という趣旨の話をしていました。それを聞き、自分たちが一生懸命に農地を守り、農山村を守ってきた意味は何だったのだろうと残念な気持ちになったとのことです。

 この話を聞き、自給意識の低さを再認識しました。全部の日本人が同様に考えているわけではないと思いますが、このような意見はそれほど奇異なものではなく、一般的にかなりあり得る見解だと思います。
 この先、日本に災害は全くないとは言い切れません。地震や津波で港が使えなくなれば、外国の資源は届きません。中国の急成長の煽りで、これまでどおり海外から食糧が入ってこなくなることも考えられます。中東の情勢不安などによって、化石燃料もいつ輸入できなくなるかわかりません。そもそも化石燃料は、持続的な資源ではなく地球に与える影響も大きいため、早期にエネルギー転換が必要です。
 そんなことを想定した時、「海外から買えば済む」「農家はいらん」という発想は、ただでさえ存立基盤の脆い日本にとってかなり危険であるということは明白です。

 日本人は、一生のうちに1回くらいは、自分が食べるものを自分でつくる経験をすべきです。米や野菜の栽培でも良いですし、野山や海や川で食べられるものを採取して調理することでも構いません。そうすれば、自分がどうやって生きているのかを多少は実感できるのではないでしょうか。
 自給とは生きることの根底にある作業だと思います。最近の日本人は、生きることそのものから遠ざかった暮らし方をしていると思うことが多くなりました。生きることや生かされていることを蔑ろにする思考が蔓延し、痛ましい事件が頻発するのは、そんなところに根源があるのかもしれません。
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by senang | 2007-02-06 18:00 | 【2】自給について
暖かいところの方が自給しやすいのかもしれない...?
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 今日は山陰の冬には似つかわしくないくらい良い天気でした。冬の間、空が青くて太陽が見える日はほんの数日です。
 今日のように暖かい日はとても過ごしやすいです。寒くないから身体が動かしやすく、加えて、あらゆる労力が軽減されます。日中はストーブを焚かなくても良かったですし、夜になって火を起こしても、いつもより使う薪の量は少なくて済みました。

 そんなこんなで、気温が高いところと低いところでは自給の方法にかなり差があると感じました。

 暖かい場所は、太陽エネルギーをより多く受ける場所ということになります。日本では、北海道や東北よりも九州や沖縄ということになり、地球規模では、極地より赤道付近ということになります。
 暖かい場所では植物もよく育ちます。生長量が多いということは、食糧やエネルギーなどの使用可能な資源の量も多いということです。すなわち豊かであるということになります。
 また、暖かければ暖を取る燃料も少なくて済みます。燃料がよく育つうえに、そんなに使わなくてもよいということになります。さらに、沿岸部であれば豪雪の心配もしなくてよいのかもしれません。
 こう書くと、暖かいところの方が過ごしやすく、自給をする条件が良いというように聞こえます。資源の面から考えると、それは事実でしょう。
 ただし、寒いところであっても暖かいところであっても、土地ごとに固有の長所と短所があります。そして、古来からその地で生存するために最善の方法がとられてきたことでしょうし、それが文化をつくってきたのだと思います。結局は、どこかに特定のパラダイスがあるのではなく、「住めば都」という諺どおり、肝心なのはそれぞれの土地でいかに良く暮らすかということになります。

 ところで、暖かいところの方が過ごしやすいといっても、世界規模で平均気温が上昇している昨今の状況はとても気になります。冒頭で述べたように、快晴で気温が高い今日のような日は過ごしやすいのですが、それ以上に地球上で起こっている変化がとても気になってしまいます。
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by senang | 2007-01-20 23:28 | 【2】自給について
自給生活にはマルチ性が求められる
 自給生活は、あらゆることを手がけなければなりません。

 家の修理やより良い暮らしのため、大工仕事は頻繁に行っています。時には大工仕事のための設計も必要です。ストーブや風呂釜を焚くためには、火をコントロールする術を身につけなければなりません。燃料を蓄えるために山へ分け入って間伐をし、割って乾燥させます。間伐1つを取っても、かなり高度な技術が必要になることがありますし、それ以上に、何十年もかかって育った木を一気に切って薪にするわけですから、感謝の気持ちを持ち続けることが大事です。さらに、春になって食べ物を自給をするようになれば、今以上に仕事は増えることでしょう。
 当然ながら、生活に費やす時間が多くなり、手間と時間が慢性的に足りていない状態です。大袈裟に言えば「生活に追われる」という状況なのかもしれませんが、カッコ良い表現をすると、「マルチタイプでなければ自給的生活はできない」ということになります。

 勿論、現代社会においては、食べ物やエネルギーを得ることは、お金で買うこと、すなわち外部化することで自分自身が全てに携わらなくても可能です。そうなると、食べ物をつくる人、燃料を運ぶ人、大工仕事をする人などが専門化されてきます。職業とは、このような分業制に基づいて、生活や社会活動に必要な技能が特化されることだと言えます。
 専門分化の究極型が都市化(都市文明化)ではないかと思います。分業制を効率よく進展させるために、建物、街並み、働き方、人間関係、さらには暮らし方がデザインされています。

 マルチタイプが求められる自給的生活は、都市・都市文明と対極に位置しているのかもしれません。そうなると、自ずと論理や掟のようなものにも差異が生じることとなります。

 マルチ性に基づく発想と、それを具現化する行動。自給の原点にはそんなことが重要なのかなと思ったりしました。
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by senang | 2007-01-18 18:04 | 【2】自給について