カテゴリ:【2】自給について( 25 )
自給生活、やっててよかった。
 自給的生活を始めて1年以上が経過しました。昨日、もうすぐ10歳になる息子から、最高の賛辞をもらいました。小学校で課題として出された作文の1行です。

 「父さんは、力が強くて、山仕事が上手でかっこいいです」

 今はまだ右往左往しながら暮らしており、決して格好の良いものではないと思っています。それでも、そんなドタバタも含めて、子供はちゃんと見ていてくれるものなんだなぁと感じました。
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by senang | 2008-02-28 19:31 | 【2】自給について
日本という船が沈む
 ある新聞記者さん曰く。

 経済学者であるK大学のD准教授などは、物事の価値観を全て経済コストで測るそうです。典型的な主張として、家と家との距離が遠い農山村は生活を維持するためのコストがかかるから、まとまって都市部へ出てくればよいというものがあります。そうすれば、サービス提供にかかる社会的コストを抑えることができるという寸法です。さらには、このような考え方の延長線上として、都市はもっと都市化すべきである、農山村はなくなればいいというお考えをお持ちのようです。
 僕としては、そうやって出て行った先に何があるのか、彼はそこに何を見いだそうとしているのか、じっくりと聞いてみたい気持ちになりました。

 さらに記者さんは続けます。

D准教授だけではなく、その師にあたる経済学の大家や元大臣のT氏なども同様の考え方を持っているとのこと。T氏に至っては、人が故郷を離れるのは場所を問わず日常的なことであり、農山村から人が出て行くのも人生の選択の1つである、だから取り立てて問題視すべきものではないという主張をされたことがあるそうです。かつて経済再建を担った人物がこの程度の認識しかないわけです。

 日本の経済や政策を左右する立場の者が、概してこのような考え方にあることに大きな危機感を覚えます。さらに、日本の人口の約7割が都市部で暮らしていることを考えると、大半の日本人は、資源の生産・循環について実感もなければイメージも湧かないんだろうなぁと思ってしまいます。将来に希望が持てなくなるのもうなずけます。

 限界集落で記者さんとそんな話をしながら、「あ、日本はもう終わったな」と感じました。その後には、ほどなく現代文明も終焉を迎えることになるでしょう。
 そもそも、資源枯渇時代が来るなんてことは、SFの世界くらいにしか思っていないのではないでしょうか。
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by senang | 2007-09-06 19:47 | 【2】自給について
人間の矛盾 -「ライブ・アース」に寄せて-
 僕は、現在の人間の精神レベルにおいてという前提のもとで、地球が深刻なダメージを被る前に地球温暖化対策を成功させることは無理だと感じています。これは、決して「何もしなくてもよい」と言っているのではありません。むしろその逆です。
 温暖化対策は勿論のこと、地球上の資源を収奪し尽くさない生き方、地球を壊さない生き方を実現することは、今の我々が何はさておき成し遂げなければならないことだと考えています。そのために、地球のことを考える意識を広める先行投資は大いにすべきです。必要なことだと思います。ただ、「温暖化を防ごう!」と言いつつ膨大なエネルギーを消費するイベントは、逆に温暖化を促進していることになります。ここに大きな矛盾があるのではないでしょうか。イベントの広告効果を問う以前に、地球の資源を収奪しながら「地球を守ろう」と言っていることに疑問を持ってしまいます。

 1つ前の記事で言いたかったことは、この矛盾を見ずに環境保護を訴えても、人間の自己満足や偽善に終わってしまうということです。当事者である地球は(地球に人格があるとすれば)、そんな人間の矛盾に満ちた行動は受け入れてくれないんじゃないかなぁと感じます。

 地球上の資源は限られているにもかかわらず、人間の文明はその上限値に達しつつあります。地球の近未来を展望すると、人間が現在の成長を続ければ、数十年後には水・エネルギー・食糧が枯渇するということは明白です。つまり、環境保護を資源の大量消費路線において行っても、来るべき日は来てしまうということになります。
 これに対処するために、「こうする方法もあるよ」と提案を出すのは、とても重要なことですね。僕は、小手先のことだけではなく、現代人の生き方や価値観を根本的に変えなければ効果はないと考えています。それは、地球の資源は有限であることをしっかりと認識して、限りある資源を持続的に使う生き方を再構築することに他なりません。そのためには、次の発想が必要だと考えています。
 ■化石燃料と決別すること。
 ■再生産できるエネルギー(バイオマスなど)を使うこと。
 ■他所の資源を膨大なエネルギーを費やして持って来ないこと。
 ■手近にある資源を有効に使って暮らすこと。

 これらを実現するための生き方として、僕は資源の自給に着目しているところです。具体的には、拙ブログの記事をご覧いただければ幸いです。

 この記事は、green_feelsさんのコメントをきっかけに書かせていただきました。機会を与えていただいたことにお礼申し上げます。
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by senang | 2007-07-10 18:47 | 【2】自給について
自給十箇条<chapter2中間まとめ>
 chapter2の中間まとめとして、これまでの自給的生活でわかったことや感じたことをまとめておきます。

■生存の大命題「環境容量の中で生きる」
 これは常々言わせていただいていることであり、個人や世帯の生き方のみならず、地球上に生きる全人類に共通するルールです。
 環境容量の中で生きることは、太陽エネルギーをベースとした様々な成長量と言い換えることができます。例えば、動植物が1年で成長する分を1年かけて消費すると表現するとわかりやすいと思います。収奪しすぎないように、持続的な暮らしの設計が必要になります。
 さらに、資源の消費や収奪について考えるだけではなく、それをどのように使うのかについても熟考を要します。今の暮らしぶりを見直さずにインプットだけを考えていてもいけないということです。このまま人口が増えれば、地球の環境容量はすぐに上限に達してしまうでしょう。そうならないように、環境容量を絶対的な上限に据えて、多少不便になっても無駄や浪費のない生活を再構築することも必要になります。
限界を認識する
あなたは生活レベルの低下に耐えられますか?
新しいモノサシ 「地球を壊すか・壊さないか」
経済学者・人口学者のロジック

■1家族に必要な面積は3~4ha?
 理論値ですが、5人家族が持続的に生活するために必要な面積は、農地0.15ha、林地3.25ha。合計すると3.4haの土地が必要ということになります。ただしこれは、華美で浪費的な暮らしに基づくものではなく、最小限の生活を送るために必要な資源量を前提としたものです。
 我が家が使用・管理している敷地は全部で約3haあり、だいたいこの数値に当てはまります。農地は十分すぎるくらいあって管理が大変なのですが、燃料を採るための山林がやや少ないかなという気がしています。
日本は1億人を養えるか?(その1)
日本は1億人を養えるか?(その2)
日本は1億人を養えるか?(その3)
18立方メートル/36本

■備えあれば憂いなし/自給は1日にして成らず
 自給生活の基本です。土地があること(所有ではなく利用する余地があること)、それを使える状態に手入れしてあること、そこから得られる資源が確保できていることなどが自給の備えになります。これは、必ずしもお金で買えるものではないということから、事前の準備やそれなりの手入れが必要になります。逆に、これらが備わっていない場合、様々な面で歪みが生じてくると思います。
 この備えは、一朝一夕にできるものではありません。薪を例に取ると、秋に木を伐り、冬を越して春になって割り、夏の間は寝かせて冬が来たら使うことができます。次の年のことを考えた段取りと作業が必要になります。
 異常気象があった場合なども、さらにこのことを強く感じます。今年の冬は少雪だったため、山に水が少なく、たちまち今年の作況に影響しています。
間伐 山の手入れと燃料生産
環境の連鎖 暖冬のツケは夏にやってくる?
備えあれば憂いなし

■資源を最大限に活用する手入れが不可欠
 約3haという我が家の管理エリアは、実は相対的な生長量がかなり多いです。それでも、現状では十分な自給資源を確保できてはいません。その原因は、面積の大小にあるのではなく、生長量を効率よく使うことができていない点にあります。
 例えば、3haの大半の生長量が野の草に回ってしまってはいけません。野菜や燃料用材に集中して使われるように手をかけることが必要です。その手入れを怠ると、せっかくの資源も宝の持ち腐れと化してしまいます。
捨てられた農地、取り残された集落

■手入れのために2~3時間/日・人が必要
 手入れを行うためには、ある程度の手間と時間がかかります。イニシャル人役は除外して、ランイング人役のみを試算すると、最低でも2~3時間/日・人の労力が必要となります。これは平均値ですので、農繁期、燃料用材の伐採、薪づくりなどのシーズンには、さらに手間がかかることになりますし、逆に生長量が低くなる(ほとんど0になる)冬季はそれほどの人役を必要としません。
早朝チェーンソー
イニシャルとランニング

■資源の効率的利用は「個別分散」ではなく「集合」で実現
 限られた資源でより多くの人間が生存するためには、効率の良いエネルギーの使い方をする必要があります。暖房で部屋を暖めたり風呂を沸かしたりする場合、1人でも5人でも必要なエネルギー量は変わりません。ならば、できるだけ集約的な暮らし方を考えることも有効です。 個別化・個人化の流れに逆行し、集団化・集合化を意識した住居のつくりや生活のリズムを考えることが有効です。
エネルギー効率から家族の適正規模を考える

■経済的価値観を否定する
 現代社会は専門分化することによって発展してきたと考えることができます。例えば、働いている人々の多くは、特定の分野で技能や知識をきわめて第三者へ提供するかわりに、生存に必要な他の物資、技術、知識などを他者から得ています。その媒介を果たしているのがお金です。
 自給とは、自分(達)のために資源を供給することです。つまり、他者とのやり取りが必ずしも前提条件ではありませんので、どんなに作業をしても儲からないことが普通です。つまり、自給的生活に必要な労力などをお金の単位に換算することがナンセンスであり、自給的生活は経済的価値観(損得勘定)をある程度まで否定しなければ成り立たないという性質のものでもあります。
「買えば済む」という生活はいつまで続くのか?

■自給にはマルチ性が求められる
 経済的価値観を否定する過程では、お金を出せば何でも解決するということも否定することになります。そうなると、生活の中では様々な作業を自分でこなさなければなりません。例えば、日々の家事は勿論のこと、日曜大工、農作業、林業などがあります。当然ながら、これらは商売ではなく自分の生活のために実施するものです。
 大抵の作業を自分でこなすことになるので、相応の技術力、すなわちマルチ性を身につけることが重要になります。
 最初からマルチな人はいません。少し器用な人はそこそこいますが、マルチ性を高めるには器用さ以上に必要な要素があります。それは、自分で自分の暮らしをつくるというクリエイティブな性質(性格)です。不器用ながらも、多くの失敗と少しの成功や達成を繰り返しながら生活することが、マルチ性を高める近道だと思います。
自給生活にはマルチ性が求められる

■貧困に飲み込まれないために
 様々な作業を「しなければならない」と思いながら追われるようにこなしていると、精神的な負担が増します。そんな暮らしではクリエイティブさが発揮できませんし、何より長続きしません。そもそも楽しくありません。精神的貧困に陥ってしまい、全てが悪い方向へ向かってしまいます。
 そこで、生活に遊び心を取り入れ、楽しみながら作業を進めることが自給生活を楽しむコツになります。実生活ベースで自給をしていると、生活に欠かせない燃料や食糧を得るなど、どうしてもクリアしなければならない作業もあります。しかし、それらも含めて生き方そのものをデザインするという感覚が必要です。また、人を迎えることを常に意識した暮らしを送ることも、同様の効果があります。
実用重視
design & entertain

■生き方を見つめ直す
 自給は自然から隔絶されたところで実践することは難しく、資源とその生産の場に近いところでの生活が基本となります。あらゆる動植物に近いところにいると、自分が1人で生きているわけではないことを直感します。同様に、人間は人間がつくった世界だけでは生きられないことも思い知らされます。
 我々は周囲(環境)との関係において生かされており、それを生き方の基本に据えることが必要です。それは現代人が失ったものであり、また、一番必要なことでもあります。自給的生活を通して、そんな当たり前の感覚を呼び覚ますことができます。
4人と数万匹
農家とカエルの関係から「生物との共生」を考える
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by senang | 2007-06-29 17:50 | 【2】自給について
Y自治区での社会実験
 近々、資源の自給と循環のための大々的な社会実験に着手します。限界集落エリアで、土地資源の再評価、放棄されている農地の復活、エネルギーの確保、生業の創出など、自給的暮らしを実現するための条件整備を行います。現在、そのための調整作業に追われているところです。

 人口1,600人のY自治区。そこが実験フィールドです。この地区を対象に、環境容量がどれだけああるのかを土地面積から試算してみました。

  農地面積325ha÷必要農地面積0.15ha/世帯
  =2,167世帯 ×5人=10, 833人

  森林面積8,910ha÷必要林地面積3.25ha/世帯
  =2,742世帯×5人=13,707人

 Y自治区には、ざっと住民の7倍の人数を養える資源蓄積があります。

 今回実験を行うのは、この中でも限られたエリアです。とっかかりとしては、1つの谷やまとまった農地(耕作放棄地)などが対象となるでしょう。下の写真をご覧いただければ、どんなところなのかがだいたいイメージできると思います。
 プロトタイプですので規模が小さくなってしまうことは否めませんが、最低でも上記の計算式にある1世帯あたりに必要な土地資源(農地0.15ha・林地3.25ha)に毛が生えた程度は確保したいと考えています。
 まずはここの環境容量を計測し、それに基づいて自給的生活を送るために利用可能な資源量、インフラ整備、人役、時間、人間関係(コミュニティ)などを忠実に積算したいと考えています。そうすることによって、上記の机上計算の誤差を修正することができます。さらに、必要人数と扶養可能人数のバランスについても考えることができます。
 これはきっと、全国的に里山資源を再利用する際のガイドラインとなることでしょう。例えば、全くの未利用資源に対して、○円・△人役を投入すれば□人の生存が可能となるという試算ができます。それが基盤となり、○円の予算でどれだけの資源自給を実現できるかという政策論議につながります。農業政策も、本来はこのようなベースがあってこそ初めて成り立つと思います。
 ま、最初からあまり硬い話をするのも無粋なので、まずは夢を描いたり、楽しいアイディアを出し合ったり、汗をかいて作業をしたりできる仲間集めから始めようと思います。多様な関わりが生まれるといいなと考えています。

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by senang | 2007-06-21 11:09 | 【2】自給について
イニシャルとランニング
 「イニシャル」と「ランニング」。この言葉に「コスト」をつけると、初期投資と経営資金ということになります。周知のとおり、これは必要なお金を算出する考え方ですが、自給的生活では、「コスト」よりも「時間」や「人役」の方が重要になります。
 とても大雑把な数値ですが、世帯や個人という単位で自給的生活を実践するためには、1日あたり2~3時間程度(約2.5時間)のランニングがかかります。時間を人役に換算すると、2.5時間/8時間=約0.3人約となります。
 必要な時間は季節によって変動があるため、これは平均した数字になります。我が家の場合、風呂焚き、山の手入れと薪の確保、薪割り、畑仕事、草刈りなどがこれに該当し、さらに冬場はストーブを焚く時間も追加されます。

 ところで、現段階では我が家がこれだけの時間(人役)を生活に割り当てることができていません。それは、日々の暮らしの中では仕事、子育て、他の活動が優先されているため、1日たった2~3時間であっても生活に割く時間を工面できないという状況にあるためです。
 また、今の暮らしを始めて半年以上たちますが、まだイニシャル人役とも言うべき作業を行っている状況もあります。つまり、自給的生活のためにわずかばかりの時間を割くことができても、イニシャルとランニングがごちゃ混ぜになっており、時間と人役の使い方に改善の余地があるということにもなります。

 このような反省点を並べてみると、おおむね2つのことが見えてきました。

 1つ目は、自給のために必要な時間をしっかりと確保するということです。2~3時間/日または0.3人役を目安として、まずはこれが確保できるかどうか。2つ目は、時間と労力を効果的に使うため、段取りをうまくするということです。
 自給的生活に入る前に、または、自給的生活を始めてもうまくいかない場合に、このような時間と人役の使い方を再考してみると良いのかもしれません。我が家の場合、まずは仕事の仕方や地域活動の整理が目下の課題です。
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by senang | 2007-06-17 17:02 | 【2】自給について
「里山プランナー」 -自給圏域確立へ向けた社会実験-
 島根県では、自給圏域の確立を念頭に置いて具体的な作業を進めるべく、「里山プランナー」を募集しています。とりあえずは今年度中に社会実験を行うためのスタッフ募集という形ですが、新たな知恵と力を投入することで、この動きが第一歩となって人や資源の動きや考え方が変わっていくことを願っています。また、一過性のものに終わらず、継続したムーブメントにつながっていくといいですね。

「里山プランナー」の募集について
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by senang | 2007-06-15 18:33 | 【2】自給について
経済学者・人口学者のロジック
 経済学者や人口学者のロジックに辟易しているところです。こう書くと、全ての経済学者や人口学者が悪いように聞こえるかもしれませんので、僕が最近接点を持った方々というように限定させていただきます。

 それで、何に辟易しているかというと、簡単に言えば既存の枠組みや専門分野の範疇でしか将来を見通していないということです。もう1つ付け加えるならば、実践がなくて発言に現実感が伴っていないということもあります。

 数日前、とある人口学者がいきなりやって来て、押し問答のようなやり取りを繰り広げました。国の人口予測にも関わったというその方は、里山や限界集落を守ることのコストと効果を考えた時、大いに疑問があるということを切り出しました。
 僕自身、集落という枠組みを守ることを積極的にとらえてはいません。それよりも、これからの世界的な資源枯渇を目前にし、環境容量の限界が見えていることを重視した対応を考える必要があると思っています。さらに、日本の自給率の低さを考慮した時、里山の食糧・エネルギー生産能力を再評価して、これらを最大限に引き出さなければならないと考えています。

 そう述べた事柄に対して、人口学者は「それは従前の農政の存在意義を示す建前であり、日本の農山村に食糧生産能力はないのが実態だ」と述べました。
 確かに現状を見ればそのとおりです。しかし、それは里山に住む人たちが好んで進めてきた路線ではなく、日本が経済大国を目指してきたことの表れです。そして、このままでは国の先がないことは明白であるため、思い切った政策によって自給国家へシフトすることが重要です。

 人口学者との話はずっと平行線をたどりました。僕は、現状を抜本的に見直して国内自給率を上げることに全力を尽くすべきだという話の文脈において、資源を最大限に活用するために社会的コストを投入する必要があると述べました。しかし、人口学者はその理屈は成り立たないと言います。彼は、里山の少ない人数の生活を確保することに大きなお金をかけるくらいなら、利便性の高い都市部に住宅を建てて移住してもらった方が、社会的に良いお金の使い方ができるということを主張します。さらに、食糧やエネルギー供給は、平和と協調に基づいて国際的連携を模索すべきであって、そもそも国内だけで考える必要はないということも力説していました。そして、世界的な環境容量としては、人口を百数十億人まで扶養できるらしい(!)です。

 個人的には、国際関係を念頭に置いた政治や経済が信用ならないうえに、最近は環境問題が急激に問題視されるようになっているのに、他力本願で悠長なことを言っているなぁと感じました。時間が惜しいので、人口学者さんには早々にお帰りいただきました。
 それでも、異論を唱えていただける方との話には自分の考え方を見直すきっかけもあるので、良い勉強になりました。
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by senang | 2007-06-14 18:36 | 【2】自給について
15平方kmの「自給圏域」
 今日、エネルギーファームをつくるのが夢だというおじいさん(もうすぐ80歳)から電話がありました。その内容は、今年の秋に地区の資源を見直す活動やパネルディスカッションを実施しようと考えているので、ひとつ話に乗ってほしいというものでした。最初はおじいさんの一方的な演説に「うん。うん。」と相槌を打っているだけだったのですが、話が段々と面白い方向へ進んでいったのです。

「ここの地区は15平方kmあるが、昔はこの中で全てを自給しとったんです。何でもつくっとったんよ。鍛冶屋も店屋もあって、生活に必要なものは全部揃った。戦時中は戦闘機の燃料もつくってましたよ。」

 100%に近い食糧を自給することは十分に可能だと思います。それよりも、僕は戦闘機の燃料をつくっていたという点に興味を持ちました。これを現在の動力源として復活することができないかというわけです。
 燃料として、何をどれだけの量生産していたのかについて聞こうと思いましたが、おじいさんはご自身のペースで話を続けます。質問しようとした時には昔の町並みの話になっており、今は使われなくなった道路や家の並びなどが記憶にある今のうちに地図にしておきたいということを延々と語っていました。

 僕は今、食糧やエネルギーの自給をするための「自給圏域」を設定し、その中で資源を循環的に使える仕組みをつくりあげてみようと考えているところです。現在と数十年前(おおよそ60年前)では生活の様相が大きくことなると思いますが、おじいさんの話によると、半世紀ちょっと前には「自給圏域」の基本ユニットがしっかりと機能していたということになります。しかもその規模が15平方kmということは、とても参考になります。

 生活に必要な店や職人さんが揃っていて、燃料までつくっていたという町は、どのようなものだったのでしょうか。秋には再現地図をつくりたいということですので、じっくりとその内容や暮らしぶりを調べたいと思います。
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by senang | 2007-06-04 17:23 | 【2】自給について
備えあれば憂いなし
 「備えあれば憂いなし」というのは有名な諺ですが、自給的生活は「備える生活」であると言ってもよいでしょう。人間は、備えなくても食べていける&生きていけるに越したことはなく、それができれば最も豊かで贅沢なのかもしれません。しかし、現代は備えがなければ生きていけないというのが実態だと思います。
 備えるものは実に様々あります。僕の場合、食糧やエネルギーの確保が備えの大きな部分を占めており、これらを用意する道具や設備も必要です。一般的には、地震、津波、寒波、熱波などの自然災害への対処も備えですし、お金を備えとして大事に貯めている人もたくさんいるようです。
 きちんとした備えは、安定した生活の保障になります。そして、「備えあれば憂いなし」を越え、「備えあれば楽しくなる」「備えあれば優しくなる」になっていきます。さらには、備えがあれば自分以外のことを考える余裕ができ、ひいては未来や人類の将来といった自分とは直接関係のないことを考える力を生みます。

 では逆に、必要な備えを失った時や備わっていない時などはどうなるのか?

 個人的には、そこから貧困が始まると考えています。物理的・経済的な貧困は勿論のことですが、それにとどまらず、発想やイメージが貧困になるというように心の余裕すらも失ってしまいます。とりあえずは目先の資源が必要であり、「自分さえよければよい」という利己的発想につながります。
 今の日本で個人主義をはき違えた人が多く、異常な事件が頻発しているのは、日本の備えが貧弱である実態に起因しているのではないかと見ています。
 飽食の時代と言われている今の時世に、錯誤的な話に聞こえる方もいることでしょう。しかし、その飽食を支えているのは自国の備えではなく、海外の資源であることは周知のとおりです。
 日本は潜在的に資源の豊かな国ですので、「備えあれば憂いなし」が目標ではなく日常となる社会をつくることは十分に可能だと思います。
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by senang | 2007-05-16 19:31 | 【2】自給について