カテゴリ:【2】コミュニティ( 9 )
脱・集落&新たなコミュニティ創出 その1
 その2 その3 その4

【その1 集落のしきたり】

 月に1度、定例の集落常会があります。これは、集落に住んでいる者が集まり、必要なことを話し合う場です。例えば、祭りの時期には配役や方法について話し合ったり、役場から農業関係の事業が伝達されれば中身について議論したりします。僕が住んでいる集落では、3月は新年度の役員の改選を主な議題として、1時間あまりの話し合いがありました。

続く・・・
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by senang | 2007-04-10 14:07 | 【2】コミュニティ
脱・集落&新たなコミュニティ創出 その2
 その1 その3 その4

【その2 たった50年で無効化した集落のルール】

 生活や資源を守るため、集落のしきたりにはそれなりの必然性がありました。そこには暮らしや生業の知恵がたくさん詰まっています。

続く・・・
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by senang | 2007-04-10 14:05 | 【2】コミュニティ
脱・集落&新たなコミュニティ創出 その3
 その1 その2 その4

【その3 これまでの100年とこれからの100年は違うものになる】

 最近は田舎へのIターン者が増えています。僕のように集落に住みついた者の中には、暗黙のうちに進められる超ローカルルールを懸命に学び、「これまでこうだったから」というしきたりに疑問を呈しながらも黙って受け入れて定着していることが多いようです。逆に、近所づきあいがうまくできない人や繊細な人は、つきあい方がわからずにノイローゼ気味になったり、その挙げ句、数年で出て行ってしまったりという話も頻繁に耳にします。

続く・・・
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by senang | 2007-04-10 14:03 | 【2】コミュニティ
脱・集落&新たなコミュニティ創出 その4
 その1 その2 その3

【その4 異分野連携による目的縁コミュニティの形成】

 僕は近々、薪を確保するグループを立ち上げようと考えています。ストーブのある家、薪風呂の家、野外で木を燃やして料理をしたい人などを集める予定です。木を伐って運んで割るという力仕事は1人では大変ですし、危険が伴う山作業は安全確保のために複数人で行うことが望ましいです。そのため、「薪を確保する」という共通の目的を持つ者を集めて組織化して、共同で作業をしようというわけです。このようなものも、目的縁コミュニティの1つと言えます。

続く・・・
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by senang | 2007-04-10 14:00 | 【2】コミュニティ
複層的なコミュニティ・レイヤーの必要性
 現在、統一地方選で賑やかです。昨日はイベントをしている公園にまで選挙カーが乗り込んできて、お客さんはとても迷惑そうでした。知り合いの県議会議員だったのですが、「あれで票が逃げていったのでは・・・」「選挙活動、逆効果だったのでは・・・」と、いらぬ心配をしたところです。

 さて、一般的には多数決で物事を決めることがよくあります。選挙もその1つですね。得票数が多い候補者が当選します。
 個人的には、多数決が必ずしも良いとは思えませんし、ある局面においては多数決はナンセンスであるとさえ思っています。例えば、人類の発展のためにとても良い公約を掲げていても、大衆にとってそれが目先の利益につながらなければ理解されません。理解されなければ票にもつながらず、現実のものとはなりません。
 多数決がナンセンスだという考え方は、言い換えれば物事の判断や決定を大衆に委ねてしまって良いのかという疑問の裏返しでもあります。多数決の場で「住民の声を・・・」とか、「国民の思いを・・・」と有権者を鼓舞しても、その声や思いの程度が低いこともしばしば。

 日頃の経験則から、僕は1:2:6:1ということを感じています。これは、大衆の中で何らかの課題が生じた場合などに、有益な対応策を出す者が全体の1割(本当は1割に満たない)、出てきた対応策に賛同して主体的に動こうとする者が2割、その場の雰囲気(世論)で何となく賛成~反対の間をフラフラしている者が6割、強固な抵抗勢力が1割というものです。
 多数決をする場合、最多層の6割をどう誘導するのかが鍵を握ります。単純に考えれば、対立する者(両極の1割と1割)間の綱引きということになります。選挙に置き換えると、フラフラしている浮動票を自分の方へ誘導するためにやかましく演説をするということになります。それで効果があるのかどうかは別として。
 必ずしも大衆意見が正しいとは限らないこと、さらに、多数決に危うさがつきまとうことは、コミュニティ単位の取り決め事ともなれば尚更色濃くなります。小さな世界のルールに沿って判断と決定がされていくわけですから、一般的な価値判断が通用しないこともよくあります。狭い社会にどっぷり漬かって生きてきた人にとって、日本全体や世界の話をしても耳を傾けようとしないこともあります。「○○地区の常識は世界の非常識」といったこともよくあります。

 これを変えるには、大衆のレベルを上げるか、多数決に依らない判断・決定の手法を採用するしかないと思います。両方必要なことなのですが、環境問題を筆頭に、前者を待っているとタイムアップとなってしまう案件もあります。
 コミュニティ単位で意思決定の手法を変えることは、これまた多大な労力を要します。ならば、いっそのことコミュニティの様相を変えてしまうことも1つの有効策ではないかと考えているところです。
 それは地縁のみにとらわれないニュータイプの「結」(互助機構)のようなものです。今はまだ仮想の話ですが、生活のルールを「循環」「自給」「浄化」に設定し、複数人や複数家族がそれに基づいて生きるとします。そして、食料や燃料の確保と生産、暮らしまわりの作業など、1人や1家族単位でできないことをコミュニティの構成員が補完しあいながら生きることが想定できます。

 フラフラ層の6割に振り回されず、抵抗勢力からのノイズが入りにくくし、仮にノイズが入っても目的を実現するためには、縦横に複数のコミュニティ・レイヤーを築いておくことが必要なのかもしれません。
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by senang | 2007-04-02 19:38 | 【2】コミュニティ
プライベートの機密性
 毎月26日の19時より、集落の常会があります。定例となっており、自治会費の徴収に加え、その時にみんなで話し合うべき議題について議論します。最近は、来年度から本格実施される「農地・水・農村環境保全対策」についての話し合いが続いています。
 この事業、タイトルどおり農地とその水路と周辺環境の維持を目的としたものです。実際は農業用水を主な対象としていますが、集落や地域組織や学校などが生活共同体として取り組むことも示唆されており、使いようによっては里山環境の保全に大きな効果があります。
 しかしながら、ずーっとここに住んで農業と水管理をやってきた人(男性の年配者)にとっては、水に着目した循環型社会という発想はほとんどなく、僕が住んでいる集落でもパッとした案が出ていません。ビオトープづくりや子供と一緒に生き物調査をしようといったことを提案する余地もなく、かなり勿体ないことになっているというのが実態です。

 話を戻します。

 今月の常会の時、話し合いが始まるまでの間に、複数の人から薪置き場について声をかけられました。
 「屋根ができたねぇ」
 「ストーブ入れたんだって?」
 「屋根の根太は縦じゃなくて横にしなきゃぁダメだ」
 「薪はあるか?ウチにたくさんいらない木があるから使いなさい」
 「他の家にも、もう使ってない木がたっくさんあるぞ」(かつて稲を干していた木組み)
 「あそこの建築屋は廃材を燃やして捨ててるらしいから、言ってみたらいいよ」

 わが家は集落の中心部からちょっと離れており、そんなにマジマジと屋根を見てもらえるような環境にありません。それでも、あれこれと話しかけられるということは、みなさんこちらが考えている以上にわが家を見てるんだなということがわかりました。屋根の構造までチェックしていることに驚きつつも、アドバイスをいただいて助かりました。・・・時間をみつけてやり直し作業をしなければなりません。

 どこまでプライベートの機密性を高めるのかということは、個人によって異なると思います。ここでは、普通に暮らしていると1つひとつの行動が周囲の住民にチェックされてしまいますが、その分だけ耳寄りな話をしてくれるというメリットもあります。
 プライベートがないのは、集落内だけにとどまらず、町全体に言えることです。「今度引っ越したsenangさん家に薪ストーブがあるらしいよ」という話はあっという間に広まったらしく、苦労しなくてもあちらこちらから薪の話がやってきました。あと2箇所、早々に薪を取りにいかなければならないところがあります。本当にありがたいことです。

 ただし、悪い噂も(悪い噂の方が)すぐに広まりますので、人の目が気になるという方にとっては住みにくいところなのかもしれませんね。
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by senang | 2007-01-30 18:50 | 【2】コミュニティ
目的縁(知縁)によるグループ
 僕の周囲には同じような趣味(?)を持つ友人がいます。それらが集まり、薪を集めること、資材を集めること、火を焚くこと、その火で調理することなどの活動を行うことがあります。これらの活動には、それなりの労力が要で、数人で力を合わせて1つの物事を成し遂げ、その成果を分け合うという仕組みが何となくできあがっています。
 例えば、薪集めの場合。山や果樹園で薪があるという話があれば、2トントラックや軽トラックに数人が乗り合わせて集合します。そして、力を合わせてガーッと積み込み、集積場所へ運び、ドドドッと荷を下ろします。その後、それぞれに薪を分配して使うこともあれば、みんなで一緒の活動で使ったりします。

 このように、資源を得るためには同じ目的を持つ者が集まって力を合わせ、目的を達成しなければならない状況が多々あります。その目的が明確になり、構成員と役割分担が発達してくると、共同体としての組織化が進みます。

 農業機械が普及する前などは、集落全員が出て農作業を行い、農家それぞれの助け合いの中で農業が成り立ってきました。それは、「結い」、「手間替え」、「テゴ」などと表現されています。集落は、地縁によって成り立っている農作業の共同体であると同時に、葬儀、祭り、道の補修などの生活の維持も担ってきました。
 モータリゼーションと分業化と個人主義化などが進んだことにより、現在は集落の意義や帰属意識が低下しています。もっともそれは、必ずしも悲観すべきことではなく、農山村であっても過去数十年の間に大きな変貌を遂げた社会に対して、旧来の仕組みが密接に対応できていないという客観的な見方をすべきでしょう。

 地縁は依然として重要な面もありますが、同じ集落に住む者であっても、考え方が均一ではありません。現代は、地縁のカウンターとして、目的縁を持った集団によって生活や生業を成り立たせるという発想も持つべきなのかもしれません。
 価値観の多様化と言われている現在、目的縁(しかも集団化しなければ達成できない目的)は、個々の知的レベルに依拠する部分が大きいのではないかと思います。例えば、自給が必要であるという視点に共感する者が集まれば、薪を集め、食物をつくり、ノウハウや情報を交換しあうといったことを効率よく進めることができます。

 自給を考えるにあたっては、目的縁あるいは知縁による集団化も考慮してみたいと思います。

 余談ですが、僕が今の家に引っ越しするにあたり、薪集めグループから薪のお祝いをもらいました。のし紙こそついていませんでしたが、実用的な贈り物は嬉しいですね。
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by senang | 2007-01-22 12:20 | 【2】コミュニティ
引っ越し協定
 今の家へ引っ越すにあたり、大勢の友人にお世話になりました。貴重な休日を使って駆けつけてくれた方ばかりです。朝から軽トラックや8人乗りワゴンで駆けつけてくれた家族もあります。同世代の家族が多いため、必然的に様々な年齢の子供もくっついてきます。気がつけば、大人が11人、子供が14人。大人達が大物の運搬作業に汗を流す中、子供達は小屋の屋根によじ登ったり、裏山を駆けめぐったり、林の遠くの方から絶叫したりしています。そして、山から帰ってきたら泥だらけです。

 気がつくと、仲間内で引っ越しがあると手伝いに行くという暗黙の了解のようなものができあがっていました。「○○家は○月○日に引っ越しだよ」という情報が回ってくると、さっと駆けつけます。男性は重量物の運搬、女性は掃除という役割分担も見事で、まさに「引っ越し協定」とでも呼べるようなものができています。これまでに我が家を含めて4件の引っ越しがありました。
 勿論、引っ越し当日のつきあいだけではなく、友人達とは引っ越し以外でも家族ぐるみのつきあいをさせていただいており、再々遊びに来てもくれます。子供が泊まりに来たり、家事や仕事で手が離せない時は、お互いに子供を預かったり預けたりという簡単な助け合いも日常的にやっています。
 我が家を含めた友人同士のつながりは、子供が同級生だったり、日頃から仲が良かったり、職場が一緒だったり、陶芸教室で一緒だったりなど、接点は様々。気がつけば、そこで気のあった者同士がまとまっていたという感じです。基本的には仲良しグループだったのですが、最近では生活面での助け合いがかなり機能的になってきたように感じます。

 客観的に見ると、この「引っ越し協定」は外来者(Iターン者)が多いように感じます。Iターン者が多いからこそ、頻繁に引っ越しというイベントが発生しているという見方もできます。かつての田舎では、地縁・血縁といった関係の中で、生活機能を補完しあっていたのかもしれません。それを先天的に持たないIターン者同士だからこそ、「引っ越し協定」や核家族ならではの日常的な助け合いが色濃くなっていくという一面もあるように感じます。
 また、都市部では様々な業態が発展し、商売として成り立つため、対価を払うことで諸々の作業ができるようになっています。ただし、引っ越し屋さんも不動産屋さんも存在しないこのあたりでは、仲間が頼みの綱という状況でもあります。

 このような生活密着型の世帯同士のまとまりも、ある種のコミュニティと言えるでしょう。大袈裟な表現をすれば、「生活していくために助け合いをする単位」という性格のコミュニティです。
 自分の生活が誰の助けによって成り立っているのかを考え、そして、これからを展望した時、地縁でも血縁でもない、フィーリングや価値観を共有するまとまりによって生活の補完を行っていく余地が十分にあると感じています。

 さて、「引っ越し協定」では、引っ越しにかかる費用として、手伝ってくれた人に食事をおごるということも暗黙の了解となっています。我が家の場合は25人分の食費ということになりました。新居に大きめのテーブルを2つ並べ、育ち盛りの子供達が繰り広げる嵐のような食卓は、すさまじいものがありました。
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by senang | 2006-11-20 18:29 | 【2】コミュニティ
挨拶のできない集落
 引っ越して地元の集落に仲間入りしました。全部で40戸弱の小さな集落です。他の家は主要道沿いに並んで立地しているのですが、我が家はそこから脇道へ入って500mくらい進んだところにポツンとあります。普段の近所づきあいという意味では、あまり実感がありません。
 この集落なるもの、一般的には地域活動の最小単位として理解されています。ただし、全国的な定義はありませんし、役割も千差万別。市街地では町内会や自治会と同等のものです。
 田舎の集落は、かつて(圃場整備と機械化が進む前)は農業を共同実施する単位でした。今でこそその必然性は失われつつありますが、農業以外でもお葬式や道の草刈り、祭りの準備などをみんなで実施しています。また、役場からの伝達事項や配り物があれば、集落単位で受けます。今の時代、集落がなければ生きていけないということはありませんが、それなりに地域の結束力を保っています。
 このあたりでは、在住者はみんな集落に入ることが暗黙の了解のようになっています。アパート形式のマンションや転勤族などは別として、定住するとなると集落に入っていなければおかしなヤツ扱いされてしまいます。よほどのことがない限り、 集落はそこに住んでいる限り属さなければならないもの・属してしまうものということになります。また、自分の住んでいる集落が嫌だからといって、違う集落に入ることができません。

 おおよそ50年くらい前までは、農作業や山仕事が生活の主要部分でした。つまり、土地に立脚した生き方であったというわけです。そのような生活スタイルにあっては、「地縁組織」である集落は生活や生業の根幹を成していたのだと思います。
 もっとも、今の時代は、職業が多様化し、通勤が遠隔化し、人々の価値観や興味関心も一様ではありません。そのため、生活に関するほとんどの部分を集落で何かをしようとすることに無理が生じてきました。良いか悪いかは別として、集落の役割や価値が薄れてきたと言えるでしょう。数百年続いてきた集落にも、時代に合わせた対応が必要なのかもしれません。

 話を戻しまして・・・

 引っ越し直後、顔見せをするということでしたので、家族揃って寄り合い会場である集会所に顔を出しました。少し早めに着いたので、みんなが揃うのを待ちます。到着した人には「こんばんは」と順々に挨拶をしました。顔見知りもあったので、しばし談笑することもありました。反面、初対面の人の中には、こちらが挨拶をしてもしげしげとこちらを見つめるだけで無言で通り過ぎる人もいます。
 集落の中は固い挨拶抜きの良い関係なのかもしれません。勝手知ったる関係で、それはそれで良いことなのでしょう。しかし、裏を返せば、集落は排他的な社会であると言え、外部や部外者に対する外交手段をあまり持っていないのかもしれません。

 挨拶は集落の体質ではなく、人と人とのコミュニケーションを取るうえで社会人として最低限の手段でしょう。今時の小学生の方がハキハキと元気に挨拶をします。それだけに、ここの集落には挨拶すらできない大人が大勢いるところなのか!?という第一印象を持ったところです。
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by senang | 2006-11-14 10:53 | 【2】コミュニティ