カテゴリ:【2】環境との対話( 34 )
釜場の友達
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 風呂釜に住み着いている友達がいます。ザトウグモの大と小の2匹です。いつもどこかでカサコソと蠢いています。まさに「千と千尋の神隠し」に出てくる釜じいを彷彿とさせます。最初、妻と息子はとても気持ち悪がっていたのですが、最近は少しだけ慣れてきたようです。
 この2匹をじっくりと観察していると、生物の神秘さを改めて感じます。ご覧のように、足が異様に長く、しかも毛のように細いのが最大の特徴です。長い足によって本体が地面から高く浮いて宙づり状態です。蜘蛛が嫌いな人にとっては、この容姿は卒倒するくらい耐え難いようです。しかし、足を器用に動かして移動する様子は、「お見事!」の一言に尽きます。そして、足が長いだけあって、ゆっくり動いているように見えて意外と速いのです。
 前から2列目の足が特に長く、遠くへ伸ばして触覚の役目を果たしているようです。暗いところで視覚が頼りにならないところだからこそ足が発達し、感覚器官の役目を果たしているのですね。なぜ足が長いのかという謎が少し解けた気がしました。
 時々、彼らは虫の死骸を抱えています。長い足で抱えているのではなく、正確には口でくわえているようです。くわえたままで移動していたところに面白がってちょっかいを出したら、獲物を捨ててすたこらと逃げていきました。

 先日、息子が釜の番をしていた時、薪の上でくつろいでいたザトウグモをあやまって一緒に釜に放り込んだのではないかと言っておりました。不運な事故で1匹だけになってしまったと思っていたのですが、次の日、ちゃんと2匹いて安心しました。
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by senang | 2006-11-29 12:22 | 【2】環境との対話
闇の中でうごめく者たち
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 我が家の周辺に人家はなく、外灯など人工の明かりもありません。家の照明を消すと、あたりは真っ暗になります。しかし実際には、“暗黒”という状況になったことがありません。どんな時でも、空はうっすらと色がついています。大抵が黒と濃い紺色の間のような色です。月夜は月明かりで向かいの山の稜線がくっきり見えますし、晴れていれば無数の星がまたたいています。曇っていても、遠くの明かりがうすらぼんやりと見えます。
 それでも、「あぁ、これが闇なんだなぁ」などと実感するので、しばし真っ暗な世界に身を置いて感知するものを楽しむのも一興です。闇の中でじーっとしていると、何者かの気配を感じることができます。最近は寒くなったためか、以前よりは気配が弱くなりましたが、先月の末頃までは何かをビンビンと感じることができました。
 代表的なのは、季節外れに弱々しく鳴く昆虫達(今はもう鳴きません)、家の真下の草むらをかき分けて何かが進む音(きっとタヌキだと思います)、裏山で鳴くフクロウ、などなど。闇の中はかなり賑やかであることに驚きながら、その相手が見えないという状況に対して、本能的に不安を感じたりもします。
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by senang | 2006-11-28 00:09 | 【2】環境との対話
ナチュラル 本来のリズムを取り戻す時
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 茶、深紅、赤、オレンジ、黄色、黄緑色、緑色。1年で最も山がカラフルな季節になりました。

 ご存じのとおり、紅葉は気温差で色合いが決まります。気温がある一定の温度より低くならなければ紅葉しません。また、じっくりと気温が下がるのではなく、急激に寒くなると色合いが美しくなります。今年は、11月初旬に-3度まで冷え込んだ日があったため、色のメリハリやコントラストが美しいのではないかと考えています。
 新緑の頃は命が大地から溢れてくる様を感じられますし、若葉の例えようのない緑色に目を奪われます。そして、その葉が役目を終えて木々が冬支度を始める今の時期も、自然のダイナミックさを感じます。そんな春と秋は、命の動きを目や耳や匂いを通して感じることができるので大好きです。

 かつての日本人は、このような命の躍動を当たり前のように感じ、そのリズムの中で生きていたのだと思います。季節の移り変わりに合わせて、生活や生業を組み立ててきたのだと思います。
 日本人が、“季節感のない生活”=“自然から離れた(切り離された)生活”=“不自然な生活”を送るようになったのは、せいぜい50年くらい前からです。当然のことですが、それ以前の数百年あるいは数千年の間、我々は命の躍動を感じながら自然のリズムに合わせて生きてきました。森や川や海とともに過ごしてきた時間の方が長いわけです。
 私見ですが、現代社会の問題に触れる度に、“不自然な生活”を送っている人がいかに多いのかということを考えてしまいます。そして、本来のリズムを取り戻す時が来ているのではないかと感じています。

 不自然を自然(natural)に戻すことは意外と単純なのかもしれません。

 それから、その名のとおり、自然体で様々な情報に出会えるこちらのブログはとても参考になります。ナチュラル・ライフのお供としてお勧めです。
 ナチュラル

 写真の解説が最後になりましたが、これは我が家の前に広がる田んぼとその周辺にある紅葉を撮ったものです。美しい期間はほんのわずかしかありません。この後、あっという間に茶色と白のモノトーンの世界に変わります。そして、モノトーンの世界は1年の3分の1に及びます。
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by senang | 2006-11-22 00:41 | 【2】環境との対話
風呂釜の炎
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 我が家の風呂は薪で焚きます。一応、灯油を使う給湯器があり、蛇口をひねれば瞬時にお湯が出てくるのですが、使っていません。自給をテーマにしているから使わないというだけではなく、給湯器のお湯は何となく重みがないのです。「重みがない」というのはとても抽象的な表現ですね。何というか、熱がないというか、暖まらないのです。薪風呂は、身体の芯から暖まります。ぬるいように感じても、しばらく湯舟に使っているとじわーっと暖まってきます。
 風呂を沸かすため、家の者の誰かが風呂釜の前に座って火の番をします(写真は風呂釜で薪が燃えている様子です)。1日1時間。1ヶ月で30時間。手間暇がかかります。この時間をどのように解釈するのか...?

 貴重な1時間を他で有効に使うのか、火を見つめながらぼーっと釜の前に座っているのか、どちらが良い過ごし方だと思いますか?

 時間の価値や過ごし方は人それぞれだと思いますが、風呂に入る準備だけに毎日1時間をかけている人は、今の日本では少数派なのかもしれません。僕は、こう考えるようになりました。
 ↓
 毎日1時間ずつ、火の扱い方を学習する機会を得ています。毎回が学習です。同じ火は二度としてありません。昨日は上手く焚けたと思ったら、今日は煙だらけ。気がついたらアッという間に火が消えてしまっていたということもあります。
 また、気持ちを落ち着ける修練をする時間でもあります。不思議なことに、焦って手を出すと、効率良く火が燃え上がりません。風呂に入る時間が余計に延びてしまいます。
 さらに、揺れる炎を見ながら色々なことを考えるチャンスでもあります。漫然とテレビを見て過ごすより、じーっと炎を見つめていると新しい発想が出てくることもあります。アイディアが湧いて風呂も沸く。一石二鳥です。

 こんな感じで、毎日、生の火と対峙します。生活の中にそんな時間を取り入れることは、物事に対する考え方や日々の生活に少しずつ影響が出てくると思います。
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by senang | 2006-11-14 18:22 | 【2】環境との対話