カテゴリ:【1】持続的な生き方( 13 )
便利時代 その3
 何となく書いていたらシリーズ化してしまった「便利時代」。言うなれば、現代の社会に対するアンチテーゼとともに、古くて新しい暮らしを見つめ直そうということになるのかもしれません。そんなことをコンパクトにまとめた記述に出会いました。
 以下、「鳥取農政懇話会」というところが2003年4月に発行した「いまこそ農を語るとき」という冊子より引用します。タイトルどおり農業とその周辺について語られており、エッセイとしての色彩がかなり濃い文献です。客観的な分析は少ないものの、そこに込められたメッセージは十分に伝わると思います。

「中山間地域と集落」
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by senang | 2006-10-27 10:06 | 【1】持続的な生き方
便利時代 その1
 100年前、いえ、50年前に比べて、日本は便利になったと思います。ポンとスイッチを押せば熱いお湯が出てきて、店が増えてあらゆる食べ物を買うことができるようになりました。コンビニエンスストアはその象徴ですね。

 そういえば、僕が住んでいる町は、島根県内では唯一コンビニのない町だったのですが、現在国道沿いに建設が進められています。コンビニができるにあたり、同世代の者と「コンビニがない町という路線も考えてみたら面白いんじゃないか?」と話したのですが、「いやいや、若者にとってはそうじゃない」と一蹴されました。この言葉には、便利さを求めているということが明確に表れていますし、高校生に対するアンケート調査でも、最もほしいものの1つにコンビニが挙げられていました。
 逆に、「コンビニなんかいらん」という声も、少数ながら耳にします。ただしそれは、便利になることのみを否定した意見ではなく、大量消費(浪費)の申し子であるコンビニに対するアンチテーゼが主な要因ととらえた方が良いでしょう。

 ところで、便利であるということは、どういうことなのか?

 便利になったということは、生活にかかる時間が短縮されたという解釈ができます。湯沸かしを例に取ると、かつてはお湯を使うにも火を熾し、風呂を沸かすにも薪を焚いていました。これが湯沸かし器の登場で、手間と時間を数十分の一に短縮することができました。その結果、湯沸かしに充てていた時間を他のことに使えるようになったわけです。勿論、湯沸かしだけではなく、炊飯、洗濯、暖房、買い物などにかかる時間を考えると、かつての生活に比べると自由な時間が圧倒的に増えたということになります。
 昔は家族の人数が多く、それぞれが家の中で役割分担をしながら生活が成り立っていました。見方を変えると、家族同士が役割分担をしなければ生活に支障があり、だからこそ一定数の家族が同居していることが必須だったということになります。
 これに対して、最近は便利になって生活に要する時間が短縮されたことにより、家族の分業形態が良くも悪くも解消されました。おばあちゃんかお母さんが1人がいれば、家族全員の世話をすることが可能になったわけです。あるいは、家族みんなが仕事や学校や遊びに行って夜になって帰ってきても、大した支度なくご飯にありつけ、テレビを見て団欒をすることができます。一人暮らしで夜遅く帰ってきても大丈夫。

 生活が便利になったことにより、生活以外に費やす時間が増え、生活以外の分野が大いに進展する可能性が生まれました。これによって確かに社会や経済は成長しました。しかし、それで日本は良い国になったのでしょうか?
 便利になることは、当然ながら悪いことではありません。ただし、便利になって時間的な余裕ができた反面、それを有効に使ってこなかったことについて、少し省みる必要があるのではないかと感じます。
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by senang | 2006-10-06 12:13 | 【1】持続的な生き方
東京産は?
 先日、東京へ行きました。羽田に着いてモノレールや地下鉄を乗り継ぎ、永田町の会議会場へ行き、夜も更けてから大手町の居酒屋で食事。そして、半蔵門にあるホテルで宿泊。この間、地上に出ることはありませんでした。いやはやモグラのような生活だなぁと実感すると同時に、外に出なくても仕事や生活ができるように移動手段や施設などが整備されていることに驚きました。

 夕食のために立ち寄った居酒屋は、おやじの巣でした。ウナギの寝床のように長い店を奥へと進み、案内されたテーブルにつき、何を食べようかと物色します。お品書きの横には、食材がとれた県の名前が載っていました。酒、魚、肉、野菜、茶豆など、全国からあらゆるものが集まってきているようです。各地の良い食材を揃えていますよということが、この店のセールスポイントだったのかもしれません。

 たくさんの県名が並ぶ中、見あたらなかったのが東京都。東京産の食材がないのです。

 少し前に、拙ブログで首都圏では過疎地域に対して理解を示さないという趣旨の記事を書いたところです。首都圏の人は、自分が日々食べているものがどこから来ているのかということを理解しているのでしょうか?例えば東京の人は、自分のところだけで暮らせと言われたら、生きていけるのでしょうか?居酒屋で目白押し状態になっているおやじさん達は、このようなことを考えながら飲んでいるのでしょうか?
 都会と田舎の連携や交流が必要だという声は多く、その意図は、田舎は生活条件が厳しいから都会に助けてもらいたいという論調で語られることも多くあります。都会で吸い上げた税金を田舎に投入するということに反発する人もいます。しかし、本当に助けられているのは、田舎ではなく都会の方であると言えるのではないでしょうか。
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by senang | 2006-09-29 10:48 | 【1】持続的な生き方
新しいモノサシ 「地球を壊すか・壊さないか」
 先日、養老孟司氏が、「石油がタダ同然にある現在は狂気の沙汰である。70kgの人間を2tもある車で運ぶなんてことは、まともではない。」とおっしゃいました。石油文明とも言うべき現代のおかしさを見事に表した一例であります。もっともだと思いました。
 なぜ、エネルギーの適正な利用という観点からすると、かなりおかしなことが行われているのか?なぜ、2tで70kgを運ぶことが可能になっているのか?それは、「経済という枠組みの中で可能だから」、わかりやすく言えば「安いから」できていることではないかと思います。

 地球は常に変わり続けています。人間を基準にすれば、そのペースはゆっくりなのかもしれません。しかし現代は、そのゆっくりペースを何倍にも早めて物事を進めることが当たり前に行われています。その概念を支えているのが経済という妄想であり、駆動力となっているのが化石燃料ではないでしょうか。

 養老氏は、こうも言いました。「もっと自然な生き方が必要ではないか。」個人的には、自然な生き方というものは地球のペースに合わせることではないかと思っています。それは、1年間に数cm動くという大陸プレートに歩調に合わせろというものではありません。言い換えれば、地球を壊さないことであると表現できます。
 経済性を絶対視し、高いか安いかという判断基準は、そろそろ破綻してきつつあります。というより、早く破綻させるべきです。これに替わり、これからの100年は、地球を壊すか・壊さないかというモノサシを持って世の中を見ることを提案します。家でも、仕事でも、社会でも、国際関係でも。

 これ、経済的なモノサシより簡単でわかりやすいと思うのですが、いかがでしょう?
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by senang | 2006-09-14 18:55 | 【1】持続的な生き方
人類の精神性は高まっているのか?
 人間のバカさ加減には、開いた口が塞がらないようなことが多々あります。

 国際社会では、現在進行形で展開されている戦争やテロ、中国をはじめとする環境破壊、国家ぐるみの人さらいや麻薬密売などがその代表格でしょう。また、政治システムや外交には不完全さや都合の良さなどが目立ち、他者(他国)に配慮のできる大人がやっていることとは思えない局面も多々見られます。
 国内でも信じがたい事件が頻発しています。深くは語りませんが、社会関係のみならず、親子の関係にさえ異常をきたす事態となっています。

 このような事件は、当然ながら人為的なものです。社会の暗部と位置づけられるかもしれませんが、社会の責任ではなく、最終的には人の心がもたらすものです。
 世界の、そして国内のこのような実態を目の当たりにしても、人類は精神面で進歩しつつあると言えるのでしょうか?事件性の高いニュースが目につきやすいマスコミの誘導的情報発信の中、素晴らしいニュースが見えにくくなっているのかもしれません。そして、見えにくいが故に、精神面での進歩も静かに進んでいると信じたい気持ちでいっぱいです。

 その昔、「人間なんて」と歌った人がいるように、所詮は人間なんて程度の低い存在なのかも知れません。ただし、感情的に「人間はダメだ」と言うつもりはありません。人間の評価や位置づけについて、実のところ主観なのか客観なのかということを考えることが重要であると感じます。

 過去、人類の歴史の中で凄惨な時期や事件は数多くありました。もっとも、現在も決して完璧な社会であるとは言い難いのですが、昔にくらべていくらかは改善されたのかもしれません。日本の場合、貧困が減り、隣近所と敵対することもなくなり、差別意識も減り、犯罪国家に支援するくらいお人好しになりました。主観的に見ると、そのように評価することができます。
 しかし、「昔に比べて良くなった」という近視眼的な評価をすることが良いのかどうか、今の状況に慢心せずに今一度考えてみる必要があります。先述したように様々な事件が起き、その質的様相は現代の特徴とも言うべき特殊で最悪なものです。客観的に見ると、精神性は依然として高まっていないか、かつてより悪くなっているとさえ感じます。

 つまり、「人間はここまで来たんだ、サルから進化した者としては立派なものだ」と考えるのか?または、「人間の所業は地球の存続にまで重大な影響をもたらしており、文明を持つ種族のすることとは到底思えない」と考えるのか?簡単に言えば、上を見るのか下を見るのかということになるのでしょう。

 個人的な見解ですが、人間の精神レベルは未だ低いままです。そして、これを脱しきるには、かなり努力が必要である一方、残された時間は少ないと考えています。
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by senang | 2006-08-14 12:26 | 【1】持続的な生き方
スーパー・マイノリティ
 持続的な社会のフィールドとして、僕は永続的な資源供給が可能な農山村(過疎地域、中山間地域、里山地帯)を念頭に置いています。このエリアをめぐる見解を少し紹介いたします。

 国の過疎地域振興の担当者によると、首都圏で農山村の必要性を説いたところで、ほとんどの人が理解を示さないということです。まず、このようなところへ行ったことがない。もう外国くらい遠い世界のような感覚であるとさえ言っていました。日本の国土の7割が農山村なのですが、その中で都市部の人が行ったことがあるのは、せいぜい観光地化されたところくらいでしょう。日本の人口の7割が都市部に存在していることを考えると、日本人は国土の3割程度しか知らない者が大半で、そこで世論が形成されていることになります。
 日本には様々な暮らしぶりがありますが、数の論理で無視されているという解釈もできます。それぞれの地方に伝わる風習やその地に密着した生き方は、資料の世界となっていく・・・。何とも偏りの大きな国です。

 過疎地域に対しては、敵視している者までいるとのこと。要するに、都会で集めた税金をなぜ人のいないところへバラ播かなければならないのかということです。自分たちの貴重な税金をどうして・・・ということで、敵視しているのでしょう。生活条件が不利な農山村の住民に対して、「好き勝手に住んでいるんだから放っておけばいい」「そんなに不便なら便利なところへ出てくればいい」と言われます。
 国の担当者は、首都圏で過疎地域振興の話をするのは、アラビアあたりへ行って観客が敵ばかりのスタジアムでサッカーの試合をするようなものだと表現していました。日本人の数量からすると、我々はごく少数の者=スーパー・マイノリティだということになります。

 メジャーであろうがマイナーであろうが、聞く耳を持たないのならいくら言っても無駄だというものです。しかも、敵視しているのであれば、農山村の存在を強調すればするほど火に油を注ぐことになるでしょう。それに、多勢に無勢です。

 そのうち人類は分化すると思っていましたが、既に意識の面では分化してしまっているのかもしれません。同じ人間という種、しかも同じ日本人でも、共通体験を持たないわけです。
 2020年あたりに資源状況がガラッと変わった時、資源のない都市側の欲求は目に見えています。その時、農山村側の人間がどう対応するのかが問われることになるでしょう。
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by senang | 2006-08-11 18:06 | 【1】持続的な生き方
不自然な食べ物
 食糧の自給を考えるのであれば、食生活を変える必要があります。また、必然的に変わらざるを得ません。「ある時にあるものを食べる」ということを基本にして、旬の食材を活かした食事を心がけることになります。
 キュウリができるのはいつの時期か知っていますか?ナスは?ホウレンソウは?キャベツは?バナナは?スーパーにいけば季節を問わずこれらの野菜や果物を買うことができます。しかしそれは、自然の移り変わりを無視して便利さと物質的な豊かさ・多様さを追求した結果です。日本人は、まず食の面で自然のリズムから遠ざかっていると表現することもできます。

 国内でつくっているものを食べるのならまだしも、今の日本人の食生活の大部分は、日本で栽培・生産されていないもので成り立っています。食糧自給率40%(カロリーベース)がそのことを象徴しています。
 日本は先進国の中でも食糧自給率が低いということは周知のことですが、遠方から無理に運んで来たものを食べることが何を意味するのか?さらに、輸入に依存して生きることが何を意味するのか?それによって得られている「豊かさ」とは真の意味で豊かなことなのか?これについて、我々はもっと真剣に考えるべきではないでしょうか。

 例えば、舌の肥えた人は、わざわざアメリカから運んできた肉を食べたいとは思いません。というより、いくら肉が食べたいと思っても、アメリカ産牛肉は食べる気が起こらないらしいです。身体が受け付けないと言っても良いでしょう。そんな理由で、舌の肥えた人は某ファストフード店を避ける傾向にありますし、アメリカ産牛肉は食卓にものぼりません。
 「身土不二」という言葉があるように、その土地で採れたものを食べることが最も身体に良いわけです。「味が合わない」という感覚は、それを身体で関知しているわけであり、実はとても重要なことです。
 食材を買う場合、価格が高いか安いかだけで吟味していると、不自然な食べ物を多く取り入れることになります。そうなると、良いものを身体で判断するという能力を失い、健康で美しい身体をつくることもできなくなるでしょう。

 他所でつくられた不自然な食べ物で不自然な人間になるより、「食糧の自給→食生活の変化(身土不二)→健康な身体」を志向した方が良いと思います。まずは身近な「食」から実践していくことが、「消費型社会」から脱皮する第一歩であり、「持続型社会」構築の近道なのかもしれません。
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by senang | 2006-08-09 10:21 | 【1】持続的な生き方
なぜ話が合わないのか? 団塊世代に始まる価値観のズレ
 最近、日本の将来を議論していて、どうにも話の合わないと感じることが多いのです。量的に見れば、僕の考え方が少数派であり異端なのでしょう。しかし、日本の持続性を考えると、どうしても多数派に迎合することができません。
 このブログでは、100年後の将来を考えること、その先鞭として、さしあたりは20年間を見越してみようと考えています。ところが、その基盤部分で見解が共有できない、つまり、価値観が異なるということを数多く体験しています。

 さっき、図書室でたまたま手に取った本を読んでいて、その価値観のズレが構造的であることを表している記述を目にしました。前後の文脈を紹介せずに抜き出しましたが、この部分だけを読んでどのようにお感じになるのかが興味深いところです。

三浦展「団塊世代を総括する」(牧野出版;2005年)22~23ページ
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 (略)自動車やエレクトロニクスを売って、儲けた金で食糧を輸入したほうが安い。そういう仕組みに今の日本はなっている。
 だから、地方でも、農業をするより、土地を売ったり貸したりして大企業の工場やショッピングセンターを誘致した方が得だという価値観が、特にこの20年ほどの間に日本中に広がった。
 しかしそれは本当にわれわれが豊かになったことを示すのだろうか。
 その豊かさは、裏を返せば、その土地に固有の、伝統的な生活様式が崩れた、あるいは薄まったということを意味する。地方らしい、そして日本らしい暮らし方が薄まっていき、そのかわり全国均一の消費生活が広まったのである。
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 共感する方、バカバカしいとお感じになる方、伝統に固執していては進歩がないと考える方、何も感じない方など、様々いらっしゃることと思います。個人的には、少なくともこの文には話が通じない根本原因がズバリと書かれていると感じました。
 戦後~高度経済成長期に始まる消費、経済価値優先、大規模化という20世紀的価値観の台頭、それを決定づけた直近の20年間。このように「自動車やエレクトロニクスを売って、儲けた金で食糧を輸入」するような生活が長く続くわけがありません。せいぜい、あと数年~十数年といったところでしょう。
 ところが、大半の日本人は、これに類する価値観を当然のこと、大前提として無意識に受け入れているのではないでしょうか。生存基盤やアイデンティティが危ういにもかかわらず、何の疑問もなく生きているということが実際のところだと思います。

 ところで、この本のタイトルにもなっているとおり、価値観の構造的なズレが始まったのは団塊世代に端を発すると考えているところです。この世代を20世紀的価値観の尖兵として今の日本を見ていくと、かなり興味深いものがありますね。
 引き続き考えてみたいと思います。
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by senang | 2006-08-05 17:01 | 【1】持続的な生き方
捨てられた農地、取り残された集落
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 ここはかつて、田んぼだったところです。田んぼとして使われなくなって数十年が経過し、今ではさながらジャングルのようになっています。急な斜面に人家が点在しており、朽ち果てた空き家が目立ちます。現在、この集落には200軒くらいの家がありますが、3人に2人が高齢者です。
 谷筋を注意深く見ていくと、写真と同じような農地の跡を数多く発見しました。つまり、今以上にたくさんの農地があり、それを耕す人がいたということです。自給自足していたというと極端に聞こえるかもしれませんが、それはあながち大袈裟ではなく、集落内部にある資源で成り立っている生活がそこにはありました。

 高度経済成長期は、農山村の人々を大量の働き手として都市へ引きずり出しました。その後に残ったものが、このような農地と集落です。こうなった農地は復活できないと考えた方がよいです。草木の根が張り、水田では保水力が落ち、水路もずたずたになっています。農地にするには、新たに開墾することと同等の大変な作業が必要になるでしょう。

 今、国内の食糧やエネルギーの自給率を上げることが急務だと感じています。この先20~30年の間に大幅な自給率アップが実現できなければ、日本の将来はほとんどないと考えてもよいでしょう。
 低調な食糧自給率が続く一方で、うち捨てられたおびただしい数の農地。多くの矛盾をはらんでいるのが今の日本社会であり、それは20世紀的価値観の裏の姿でもあります。
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by senang | 2006-06-13 17:23 | 【1】持続的な生き方
生き残りあるいは絶滅へ向けた10のシナリオ
 人類がこの先をどう生き残るのか(または生き残ることができないのか)について、いくつかのシナリオを考えてみました。空想の域を出ませんが、視野を広げる材料にしていただければ幸いです。

シナリオ1:価値観と暮らし方に方向転換が起こる
 徐々にではあるが国民的理解が形成され(価値観の転換)、社会システムや生活様式を変えていく。ひいては、この動きが全世界に広がり、地球レベルで成長型社会から持続型社会への移行が実現する。
→発展の兆し=持続的生き方の実現

シナリオ2:体制によって強制的な方向転換がもたらされる
 価値観の転換は自然発生的に起こるものではなく、その必要を認識した国家や行政などによって積極的に社会システムの再構築が行われる。そのため、少なからず反発も生じる。一時的な混乱はあるが、数十年かけて持続型社会が確立される。
→発展の兆し=持続的生き方の実現

シナリオ3:現状のまま推移して化石燃料が高騰する
 国家や行政はこれまでの社会のあり方に疑問を持つことはなく、イニシアチブを取ることもしない。一方、価値観の転換や社会システムの再構築がなされないため、近視眼的な資源(主として化石燃料)の確保が急務となり、経済に多大な影響が出ることになる。
→発展の兆し=持続的生き方の実現

シナリオ4:化石燃料をめぐって国際情勢がますます不安定になる
 現状の生活レベルの低下を受け入れられないことを棚に上げ、化石燃料の枯渇に端を発して争乱が起きる。資源確保の重要性に比例し、軍備強化も進められることとなる。
→劣化の兆し=絶滅への第一歩目

シナリオ5:成長型社会が破綻してはじめて方向転換が起こる
 現状の社会システムが破綻する。そこではじめて暮らし方を変えなければならないことに気づく。<→オプション1へ>
 しかし、オプション1に比べると、経済破綻によって貧困の進行、失業者の増加、などが深刻化しており、社会システムの再構築は容易ならざる状況になっている。
→発展の兆し=持続的生き方の実現(ただし大きな痛みを伴う)

シナリオ6:世界規模で戦争が勃発する/環境問題も深刻化する
 社会システムの破綻を修復するため、資源をめぐって世界規模で戦争状態に突入する。世界大戦の様相を呈する。
 また、化石燃料を使い続けることにより、地球温暖化などが依然として進み、環境問題が深刻化する。
→劣化の兆し=絶滅への第二歩目

シナリオ7:格差拡大と人口淘汰/国外脱出
 戦乱により、経済、教育、文化が停滞し、ひいては人間性の低下が起こる。敗戦国における生活レベルは極度に低下し、民衆がスラム化する。戦勝国はわずかになった資源をほぼ独占し、従前の発展を続けようとする。なお、戦乱という人為的な人口淘汰が実現するため、生き残った者(戦勝国)が使うことのできる資源は、一見すると増えたように感じられる。
 化石燃料の消費は依然として続くため、環境問題は一層深刻化する。国境の発展的な解消と交流の促進ということを名目に、環境問題を逃れる動きが目立つようになる。実質的に、途上国に対する植民地化が進む。
→劣化の兆し=絶滅への第三歩目

シナリオ8:スラム化から貧困国へ移行する
 戦勝国と敗戦国の格差が著しくなる。敗戦国ではスラム化が進み、人口増加と生存率低下が起こり、典型的な発展途上国もしくは貧困国の人口増減パターンを形成する。
 なお、オプション5で社会システムと価値観を転換させる痛みに耐えきれない場合、結果的にここに帰着することとなる。
→劣化の兆し=絶滅への第四歩目

シナリオ9: 絶滅へのサイクルを繰り返す
 人間は「増加→淘汰→増加」というカルマから逃れることができない生物である。その結果、オプション3~8をたどる以外に道はあり得ない。このサイクルを繰り返すうち、人間が住める環境が地球規模で失われ、人類は勢力を欠いていく。
→劣化の兆し=絶滅への王手

シナリオ10: 新勢力が台頭する
 人々の価値観は一様ではない。人間のカルマに身を置きながら、持続的な生き方を目指す者も現れる。旧来の価値観を持つ大半の者から反社会的と見なされて攻撃の対象になるが、点在する少数派が集団化・組織化していくことにより、現行の社会と勢力を二分する存在にまで発展する。
 両者は生物学的に見れば同じ人類であるが、価値観や生き方の面では全く別のものとなっていく。長期的に見ると、別の生物として枝分かれする分岐点と言える。
→進化の兆し
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by senang | 2006-06-06 17:24 | 【1】持続的な生き方