カテゴリ:【1】地球のリズム( 14 )
山道の草刈りで思ったこと 1 生物多様性
 今月は登山道の草刈り月間。年に2回、6月と9月に伸びた草を刈ります。高原は涼しく、暑い盛りを過ぎたとはいえ、草刈り機を背負って山道を登り、草を刈る作業は、とても良い運動になります。
 頂上付近の尾根づたいの道を進んでいた時、クマの糞を発見しました。道の真ん中に大きな塊になっています。少し離れたところにも別の塊がありました。

 それで、この道は様々な生き物が利用しているのではないかと考えたところです。

 まず、糞があったことから、山道がクマの通り道になっていることは明白です。実は、道のど真ん中に糞があるのを他にも何度か発見したことがあるので、クマは山道(特に尾根沿い)を意図的に選択して使っているのではないかと想像しています。
 昼になり、道に座り込んで昼食をとりました。ランダムに腰を下ろした周囲を注意深く見ると、様々な昆虫がいます。大きなものから小さなものまでアリが4種類、形は蚊だけれど大きさが数倍ある巨大な飛行型の虫、アブの仲間が3種類、などなど。昆虫はあまり詳しくないので、描写が大雑把ですみません。また、これら以外にも多くの生物がいたことと思います。

 道から藪の中をのぞき込みました。そして、道と藪の比較をしました。人が入らないところは、意外と単調な環境なのではないかと感じたところです。つまり、藪の中より山道の方が多様性がある、言い換えれば、変化に富んでいるという仮説が成り立ちます。もっと厳密に言えば、藪と山道との境目のあたりに、多くの動植物が棲んでいるのかもしれません。

 人間が切り開き、刈り払うことによって残されてきた環境が存在します。年2回の草刈りもその1つです。そして、そこを格好の住処としている生物もいます。
 人間の行為が全て地球にとって悪いというものではありません。「人間VS地球」というものでもありません。人間の行為は循環系の1つであり、それを持続的に維持しうる存在として位置づけることもできるでしょう。

e0052074_17273776.jpg

この花も山道の真ん中に咲いていました(2006年5月)。
[PR]
by senang | 2006-09-05 17:32 | 【1】地球のリズム
脳は身体と精神をつなぐ装置
 以下、仮説の域を出ませんが、さっき寝つけずにゴロゴロしていた時に湧き上がってきた考え方をダイレクトに書かせていただきます。

 身体面における脳の働きとして、各組織からの情報を神経を経由して収集し、肉体の維持・生存のための命令を送っていることが挙げられます。脳は元々、生存のための情報処理を担う器官として発達したのだと考えられます。そのような自律機能の中枢である脳が頭にあるのは、たまたま身体内での物理的な合理性に由来するからなのかもしれません。
 ところが人間の場合は、情報の処理能力が(どういうわけか)向上したため、情報の収集・分類(選択)・変換などについて「独自の脚色」を行うことができるようになりました。この「独自の脚色」は、時代や文化によって様々に変化しますが、身体性に基づく論理や欲求に大きな影響を受けていると考えられます。なぜなら、脳は身体の器官の1つとして存在し、初期段階では肉体を維持するための情報処理に特化した役割を担っていたと考えられるからです。

 脳は、このような遺伝子や細胞に由来する身体性に合わせて、霊的な世界(非物質世界)に通じる精神性にも何らかの関わりがあると見ています。人間の脳は、情報の処理能力が(どういうわけか)向上したため、非物質世界(精神世界)と物質世界の変換を可能にしたのかもしれません。非物質世界を物質世界へ変換することが「考える」ということであり、この2つの性質の結節概念が「自我」と言われているものなのかもしれません。
 このことを突き詰めて考えると、自我は身体性と精神性の2つから成っているということになります。そして、脳は主体的に思考する器官ではなく、これら2つの性質の結節装置であるという表現がより正確なのでしょう。

 脳は結節装置(ハード)である。自我は結節概念(ソフト)である。このことを意識しつつ、「考える」ということの意味を自覚すると、何が重要なのかが少し見えてきたように感じます。
[PR]
by senang | 2006-08-11 02:36 | 【1】地球のリズム
プログラミングされた自分と自我と
 手が2本。足も2本。耳があって音が聞こえ、目があって景色が見えます。指が5本あります。その指が今、自在に曲がってキーボードを叩いています。
 自分自身で設計図を引いたり組み立てたわけではありませんが、いつの頃からか気がついたら自分の身体がありました。それは生まれた時から、いえ、生まれる前からちゃんとプログラミングされ、身体を成すように働いていました。そう考えた時、自分はものすごく精密で勤勉な仕事をしているなぁと感じました。そして、人間も含めて全ての生物のことを考えた時、そんな個体が地球上には無数に存在していることに気づきました。
 一方、「自分」という自覚があります。俗に自我と言われ、思い、考え、行動しています。緻密な作業をしている身体サイドの自分に比べて、自覚できる自分はあまり大した仕事をしていないのではないかと自問してしまうこともあります。

 自我の外にあり、遺伝子のプログラムに基づいて成形された自分。そして、自我という自分。自分自身の中には、少なくとも2つの自分がいるようです。
[PR]
by senang | 2006-08-08 00:05 | 【1】地球のリズム
命を育む色 クロロフィル
e0052074_17545486.jpg

 緑色は葉緑体の色。葉緑体の色はクロロフィルの色。クロロフィルは、太陽からやってくる光エネルギーを利用して、炭酸ガスと水から炭水化物を合成する光合成の重要な役割を担っています。緑色をしている植物は、地球上の生物が命を存続させるために欠かせない存在であると言えるでしょう。緑の星、緑の大地、緑が豊か・・・と言われるように、緑色は命豊かな環境の象徴でもあります。
 地球上では光エネルギーを利用するのにクロロフィルが都合良かったから、たまたまクロロフィルが使われるようになったのかもしれません。つまり、たまたまの結果として緑の地球や緑の大地という環境になったと解釈することもできます。もしもこれがクロロフィルではなかったとすれば、我々が自然界でよく目にする色は何色だったのだろうかと、想像をたくましくしていまします。また、他の天体では、そもそも光を物質合成のエネルギー源としていないのかもしれません。そうなると、緑色が溢れる環境、もっと突き詰めて言えば、クロロフィルを含む草木が生い茂っている環境とは全く異なる光景が、豊かで安心できる環境ということになります。

 緑色が命の豊かさを象徴しているというのは、地球独特のことではないかと思いました。
[PR]
by senang | 2006-08-07 18:00 | 【1】地球のリズム
運と運命 「求めよ、されば与えられん」
 「求めよ、されば与えられん」という言葉があるように、何もせずに「何か良いことないかなぁ」と待っていても、良いことの方から転がり込んで来てくれた経験はほとんどありません。

 それでも、偶然の産物である「良いこと」を待ち続けますか...?

 よく、運が良いとか、運命だとかいうことを耳にします。偶然のことのように感じられることも多いですが、実はかなり必然性が高いのではないかと考えるようになりました。
 例えば、無目的に日常を過ごしている場合と、何かの目標や知りたいこと・得たいことがあって日常を過ごしている場合では、自分の中に蓄積される情報量が圧倒的に異なります。後者は、しっかりとアンテナを張り、そこで外部情報をキャッチできるわけです。さらに、目標設定があれば、得た情報を的確に活用することにもつながります。チャンスはそのようなことから生まれます。
 それで、探すことと見つかること(見つけること)は同義ではないかと考えいるところです。付け加えるならば、「運が良い」というのは偶然がもたらすものではなく、巷に転がっているチャンスを自分のものにできるかどうかという資質に左右されるものなのかもしれません。逆に、無目的であればせっかくのチャンスがあっても気づかずに通り過ぎてしまうことでしょう。理想は高いのに、意識が低いためにそのような結果になっている人をよく見かけます。もっとも、本人は気づく由もないのですが・・・。

 関連して述べますと、今の社会には情報が怒濤のごとく溢れています。しかも、その大半はマスコミを中心とした低質・低俗なもので、どうでもいいことだったりします。これらの情報に翻弄されることなく仕分け、必要なものを参照するためには、自己の中に目的意識を持ち、目標設定をすることが重要なのではないかと感じました。

 「求めよ、されば与えられん」ということで、今のこの時代にあなたは何を求めますか?
[PR]
by senang | 2006-08-06 23:12 | 【1】地球のリズム
進化とは完成型であり途中型である
e0052074_13515545.jpg

 先日、友人と夕食を食べていた時、外灯の明かりにオスのミヤマクワガタがやってきました。その友人、少年時代は昆虫少年だったらしく、クワガタを手にしながら立派なハサミや目の上にある突起に見とれていました。そして一言。

 「これはまさに芸術品だね。進化の完成型かもしれない。」

 この言葉を少し補足すると、今、地球上にいる生物の全てが進化の完成型であり、途中型であるということになります。

 進化の完成型という見方をすれば、環境に合わせて最良の形態を完成させたということが言えます。その「最良」とは、淘汰に勝つために最も適した形であると言い換えることもできます。淘汰に勝つことができているからこそ、今生きていられるということにもなります。
 ワニやシーラカンスは、太古の昔から姿がほとんど変わっていないと言われています。それは、旧式であるというわけではなく、彼らが住んでいる環境において、最適な形をしていたから変化(進化)する必要がなかったということではないかと思います。つまり、完成型であるという見方をすることもできます。

 進化の途中型という意味では、今の形態がこれで固定されるものではないということです。つまり、これから先に環境が変われば、それに応じて形も変わっていくでしょう。例えば、今は淘汰に勝つために最良の形をしている者であっても、気候や植生、そこに住む他の生物との力関係などによって、一転して弱い立場になってしまうということも十分にあり得ます。
 外灯の下には、ミヤマクワガタの後でカブトムシのオスもやってきました。しかし、これが驚くほど小さかった…。単純に考えると、体力面では他のオスに負けてしまい、子孫を残すことができないのではないかといらぬ心配をしてしまいます。しかし、友人が言うことには、他の力強いオスがメスと交尾をしている時、小さいオスは目立たないように近くで待っていて、前のオスの交尾が終わった後で交尾に行くのだとか。確かに、その方が効率的であり、争いを避けることができます。さらに、そのような繁殖方法をとる限りにおいては、小回りのきく小さい身体の方が有利なのかもしれません。なので、小さなカブトムシは劣性個体ではなく、なるべくして小さくなったということです。

 地球上の生物について、「進化に究極型はない」ということが言えるのかもしれません。別の表現をするならば、「環境が変化し続ける限り、生物には絶対的な完成型が存在しない」ということになります。
 地球は常に動いています。そして、地球上の生物における進化とは、その変化に対する柔軟で潜在的な対応力であると言えます。
[PR]
by senang | 2006-07-21 14:26 | 【1】地球のリズム
親から子へ
 親を誰かと比較したり、点数をつけたりすることはできませんが、敢えて点数をつけるとすれば、僕の親は満点だと思います。

 僕は、ついつい自分のことより我が子のことを思ってしまいます。息子達にはいつも笑顔でいてほしいと思います。過保護になったり過大な期待をかけたりしないように心がけ、子供自身のペースで成長していってほしいと願っています。でも、気がつくと声を荒げていることもしばしばです。

 僕が幼少の頃、夕方に母が帰ってくると、タバコ臭い仕事着のまま、何はさておき一番最初に僕と妹のところへやってきました。そして、抱きしめて顔をすり寄せてくれたことを思い出します。家で退屈していると、父が仕事の合間にやってきて、配達先へ連れて行ってくれました。家にいる時の父とは違う、仕事をしている時の父と一緒にいるのは、とてもワクワクしました。
 親の愛情は、子供を持って初めて実感しました。さらに、自分が幼い時に両親が今の僕と同じように我が子に接してくれていたことを思い出し、親の愛情というものを再確認しました。

 それで、なぜ自分の親が満点なのかというと、僕にそんな気持ちや感情をちゃんと伝えてくれたからです。親の愛情を感じ、表現できる人間にしてくれたからです。当たり前のことかもしれませんが、僕から見ればありがたいことです。

 今は両親と反目することが多く、こんなことは面と向かって言えません。もしかしたら、どちらかが生きている間には伝えられないかもしれません。それでも、本能とは違う、親が子に対して感じたり表現したりする基本的な感情は、しっかりと受け継がれているようです。
[PR]
by senang | 2006-07-05 22:31 | 【1】地球のリズム
バビ・グリン
 バリ島の儀礼料理「バビ・グリン」をしました。インドネシア語で、「バビ」は豚、「グリン」はぐるぐる回す、という意味です。要するに、豚の丸焼きです。バリ島にある数多くの儀礼のうち、おめでたい場面で出される料理です。今回は事情により、豚ではなくイノシシを丸焼きにしました。写真でも、鼻先が長い様子からイノシシであることがおわかりいただけると思います。

 イノシシを丸焼きにするにあたり、我が家で息子と話をしました。

 「今度、イノシシの丸焼き食べる?」
 「うん、食べる食べる!」
 「イノシシを殺すところからやるんだよ」
 「え!?・・・そんなかわいそうなことはいやだ!」(と、息子は怒って机を叩く)
 「じゃあ、さっき食べたのは何の肉?」
 「牛」
 「牛はよくて、イノシシはかわいそう?」
 「牛もかわいそうだけど・・・」
 「でも、食べないと生きていけないね」
 「うん、そうだけど・・・」

 息子にとって、答えは出なかったようです。実は、僕自身も小学校4年生の時にこの問題に直面し、未だに納得のいく答えを得ていません。
 確かなことは、食べるということや生きるということは、他者の命をいただくということです。生きている者は、無数の死んでいった者があって成り立っているということです。

 そのことが少しでも息子に伝わっていればよいと願っているところです。

e0052074_17565612.jpg

[PR]
by senang | 2006-07-03 17:57 | 【1】地球のリズム
奇跡や神秘がありふれている世界
 雪が消えると、山の草木は一気に芽吹きます。みずみずしい新緑の色は、命のエネルギーが溢れている色です。
 若芽の1つひとつを見ていると、成長の過程が実に緻密であることに気づかされます。その根本をたどっていくと、遺伝子レベルでプログラミングされているコマンドの正確さと厳密さに行き着きます。一見すると、それは奇跡的だったり神秘的だったりしますが、現象の数としては無数に近いものです。

 我々は、奇跡や神秘がありふれた世界に触れることができます。
 そして、そのことをありがたいと感じる気持ちを大切にしたいと思います。
 同時に、自分もその中の1つであることを認識する必要があります。

e0052074_354897.jpg

[PR]
by senang | 2006-06-04 03:15 | 【1】地球のリズム
曲がっても、空っぽになっても
 生きることのエネルギーは、遺伝子が持つ「自己と種を保存する」という欲望に基づいているのかもしれません。遺伝子に逆らい、生きることを自ら放棄する生物がいるのでしょうか。全体が残るために個体が犠牲になることもありますが、全体にとって何の役にも立たないのに個体を滅したがる生物はいるのでしょうか。

 1種類だけ知っています。

 生物は自然をフィールドとして生存しています。ところが、人間は自然から切り離され、社会というものに根本を置いて生存するようになりました。しかも、自然とのリンクを絶った生活が顕著になったのは現代に入ってからであり、人類の歴史から見ると本当にわずかな期間のことです。短期間で生き方を急激に変えてしまったというわけです。これだけでも歪みが出て然りです。
 人間の社会は、自然ではありません。つまり、不自然なものです。そんな社会に埋没し、生きるための論理を失っているということが行き詰まりの原因ではないかと思います。ならば、社会から離れた視野を持ったり、一旦は社会を否定したりすべきだと思います。そこまでジャンプできなければ、せめて社会の外=自然に触れてリズムを取り戻してみませんか?

生きようとする自然のリズム・遺伝子の論理をご堪能ください。
 ↓

e0052074_21463031.jpg

 一度根を生やしたら、そこから動くことはできません。
 風雪に耐え、折れても曲がっても伸びていこうとしています。

e0052074_21483576.jpg

 こうやって伸びていった先には、何があるのか...?
 こうやって伸びるまでには、どれくらいの月日を要したのか...?

e0052074_2150893.jpg

 穴だらけになって中身がなくなっても、それでも立っています。
 それでも生きています。
[PR]
by senang | 2006-05-26 21:58 | 【1】地球のリズム