カテゴリ:【0】センシブルワールド( 139 )
新・進化論 3 宇宙人は風?
 ある日の親子の会話です。
  「父ちゃん、UFOってあるの?宇宙人っているの?」
  「おまえはどう思う?」
  「見たことないからわからん。」
  「じゃ、もし見てしまったら?」
  「そしたら、いるってことになるのかな。」

 この話の流れでいくと、息子がイメージしている宇宙人とは見える存在であり、UFOに乗って移動する存在であるという前提になります。

 進化論の考え方に「適応放散」というものがあります。同じ空を飛ぶ生き物でも、鳥は翼に羽を生やしていますが、コウモリは骨の間に膜を張っています。つまり、同じ性質(この場合は飛ぶという性質)を持つ種であっても、由来が違えば形もしくみも違うということです。

 この際、人間が「知的」か「恥的」かはともかくとして・・・

 他の星や空間に人間と同じような知性を持つ生物がいたとしても、そこは地球とまったく同じ環境であるとは限りません。いえ、まったく同じということはあり得ないでしょう。とすると、それは人間と同じ形や似た形ではない可能性も高いわけです。だいいち、地球上に存在する空を飛ぶ生物の間にさえ羽と膜という大きな違いがあるのに、星や空間が違えば形状的差異は甚だしいと考えた方が妥当です。人間に似た知的生命体であったとしても、他所の生命体は有機物でできておらず、脳みそで思考するものではない・・・のかもしれません。そもそも、人間が重きを置いている知性(恥性)すら、地球の理屈に従ったローカルプロダクツなのかもしれませんね。

 そんな理屈を7歳児にでもわかるように話していたら、息子にとっての宇宙人は「毎年やってくる春のようなものかもしれない」、「名前だけあって見えないもの、いないものなのかもしれない」、ということになったようです。少なくとも、ヨーダやETのようなものではなく、ましてやUFOに乗って人さらいをするグレイのような宇宙人像ではなくなりました。
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by senang | 2006-01-27 01:14 | 【0】センシブルワールド
新・進化論 2 細分化(分業化)の末路
 進化は環境への適応。その法則の1つが細分化であると言えます。生物は環境の差異に合わせて生活方法や形状を多様化させ、分化していきます。そして、分化は新しい種を生みます。
 例えば、ギフチョウはカンアオイしか食べません。しかも、カンアオイなら何でも良いというわけではなく、亜種も含めて生息場所に生えている1種類のものしか食べません。カンアオイ科の植物は拡散して増えることがとても苦手ですので、ギフチョウはきわめて脆い存立基盤の上で生きているということになります。

 人間も細分化しています。特に注目したいのは、生理機能的にではなく社会的に細分化しているという点です。それは分業化とも表現できます。
 例えば、生涯にわたって靴をつくり続けている人がいます。もっと突き詰めると、靴底や靴ひもなどのパーツをつくることだけを仕事としている人がいます。靴を売るだけの人もいます。ほとんどの民族にとって、靴は生活になくてはならないものですが、生活は靴だけで成り立っていません。でも、朝から晩まで靴をつくって生きている人がいるわけです。それで生きていけるわけですし、そうしないと生きていけないとも言えます。
 それぞれに専門分野があり、そこでできた「分業の成果」を持ち寄って大きな社会が成り立っています。多くの現代人が、分業化の一端となって生活しています。

 ところで、分業化によって与えられた仕事をこなすことに忙しすぎて、自分の守備範囲しか考えられなくなったらどうなるでしょう。何のために・どうやって・どんな靴底をつくるのかという意思がそがれれば、何とも履き心地の悪い靴ができあがってしまいます。これはあらゆることに共通しています。例えば、国民のために・国民の声を聞き・夢のある社会をつくるという意思があったとしても、それを考えて実行するはずの政治システムが分業化されて全体視できなくなっていれば、分業のナワバリを保持することに傾注してしまうことも不思議ではありません。
 現代社会は、往々にしてそのような方向に動いてきているのではないでしょうか。そして、細分化あるいは分業化の一層の進展は、社会的機能不全を引き起こしてしまうのかもしれません。

 もしも進化の末路がそのように仕組まれているのなら、(発生から消滅までの期間の長さに差はあるにせよ)生物の絶滅や社会の崩壊は最初からわかりきったことだったのかもしれません。それは種や文明としての寿命だと解釈することもできるでしょう。
 あくまでも仮説に過ぎませんが、「細分化=絶滅」というベクトルがあるとすれば、多様化の進行は危険サインなのかもしれません。今の社会、良くも悪くも色々な人がいるということをどう意味づけますか?
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by senang | 2006-01-27 00:39 | 【0】センシブルワールド
資源配分マスター
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 閉鎖型循環系という地球では、生物が生きていくための共通ルールがあります。太陽エネルギーを発端としたエネルギー循環があり、その枠内で生存していくということです。薄くて脆い地表で、エネルギー循環を急激に乱す、インプット以上のエネルギーを消費するなどのルールを破ると、当然ながらおかしなことが起こって生命が危険にさらされます。
 この考え方に基づけば、超えてはならない限界値があることに気づきます。別の角度から見ると、所属する環境の限界値に応じて、生物に許されたエネルギー消費量が決まっているということになります。
 環境容量に合わせて成長の限界を見極めるのか、成長し続けていくために環境容量を増やそうとするのか・・・。前者の道を歩んできた者もいれば、主として後者の道を歩んできた者もいます。今の人類は、紛れもなく後者ですね。
 右肩上がりの文明には、もうすぐ限界が訪れます。これからの時代、バイオマスの再生産なども含めて、限られた資源の中で生きていかなければなりません。それらの持続性を保障する観点から、文明を節度あるものに再構築する必要があるでしょう。

 ところで、限られた資源の配分は誰が決めるのでしょう?地球のリズムをしっかりと聞き取ることができるのなら、自発的にバランスを取ることもできると思います。でも、今の人間にそれができるのか、とても怪しいと言わざるを得ません。
 残された方法は、意識的に自制することのような気がします。まず、インプット(太陽エネルギー)とその循環効率を考え、循環系を把握すること。次に、循環系の中にある適正な環境容量を計算すること。それに従い、消費可能なエネルギー量を決めること。勿論、エネルギー消費の中には、再生産に必要な行為も組み込まなければなりません。
 そんな計算を行い、適正な配分を行うマスターが必要なのかもしれません。現状の国家がその役目を担うなんて到底無理だということはわかりきっていますね。経済界もNG。宗教も論外。つまるところ、今の支配層には適任者がいないというわけです。

 そんな現状を打破し、新しい価値観で資源配分を行うマスターが数年以内に出現しなければ、人類は大きな痛みを伴うことになると思います。マスターは資源の配分を行うだけではなく、環境容量に合わせて人間の数や文明の発展度合いを規制する役割も併せ持つ必要があります。
 個人なのか組織なのかはともかく、世界規模で人類をマネージメントする存在の必要性を強く感じています。

<参考> 「環境容量」という考え方
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by senang | 2006-01-26 01:07 | 【0】センシブルワールド
その日暮らし
 その日暮らしで生きている人は狩猟採取民族の血を引いているのかもしれません。最も原初のその日暮らしは、手を伸ばせば食料があるということではないかと思います。蓄えておかなくてもよいということです。獲物を追って汗を流すことはあったでしょうが、狩猟採取という生き方は、基本的に豊かな条件でしか成立しないというわけです。
 一方、農業は食料を人為的に確保する目的があります。慢性的に豊かではない条件のもとで発達したのではないかと思います。もしかしたら、自生している木や草から食料を採取するより、大きな労力を必要とするのかもしれません。そして、収穫物は来シーズンまで蓄えておかなければなりません。その日暮らしができないのです。

 これ、狩猟採取民族と農耕民族が根本的に違う部分だと言えると思います。そして、そんな生活スタイルの違いは、必然的に文化の違いにもなっていきます。
 今の時代、その日暮らしといえばいい加減の象徴のような感じを受けます。でも、物に執着しない考え方、人間関係に依拠しない生活(農耕を維持するためには共同体が必要)、何より地球のリズムとともにある生き方は、その日暮らしを原点に置くと何かが見えるのかもしれません。

<参考> 農業の興りは欠乏と貧困だった
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by senang | 2006-01-25 21:11 | 【0】センシブルワールド
ウィルス撃退方法
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 人間が住んでいるのは、せいぜい水面上数十m。たまにビルという脆い足場でつくった地上数百mの空間に住んでいる人もいることはいます。また、海抜数千mのところに住んでいる民族もいます。いずれにしても、地球全体の大きさから見れば薄いもんです。
 薄い存在ですが、地表を覆って地球に痛恨のダメージを与えていることもあります。それはまるで、目に見えないけれど重大な症状を引き起こすウィルスのようです。

 ウィルスは宿主が死んだら死滅するのでしょうね。宿主を滅ぼそうとするのは、そうとわかっていてやっていることなのか、わからずにやっていることなのか...?
 人間も地球にダメージを与え続けたら死滅するのでしょうね。地球にタメージを与え続けているのは、そうとわかっていてやっていることなのか、わからずにやっていることなのか...?

 人間が住んでいるのは、せいぜい水面上数十m。つまり、地球の内部に届くような投薬をしなくても、大きな手術をしなくても、ちょっとした天変地異で海に沈んで一掃されてしまいます。都市部の多くは海岸線に位置していますから、効率よく一掃できます。

 実のところ、人間はウィルスより脆い存在なのかもしれません。
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by senang | 2006-01-24 21:21 | 【0】センシブルワールド
フィクションからリアルを変える
 このブログが「センシブルワールド極楽」となる前、ごく私的な小説集「極楽」なるものを書かせていただいておりました。ブログの衣替えに伴い、これまでのコンテンツはお蔵入りしていたのです。
 気が向けば、そのうちどこかに再アップしてみようかなぁとあてもなく考えていました。そしてこの度、新たにホームページにアレンジして公開することにいたしました。公開に至った経緯は、このようなことです(ホームページ「おわりに」より)。
  ↓
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 しかし今、フィクションとリアルを分断して考える必要はないということに気づいたのです。そもそも、フィクションとは何か?空想?空想って何?
 現実社会の動静は、人々が考えていることや行いの結果だと思います。そして、人々が考えていることは、多かれ少なかれ空想に依拠している部分があります。そうであれば現実ではないことにも大いなる意味があるのかもしれません。具体的に言えば、フィクションを世に出し、それを読んでいただくことで複数の人々に共通のイメージを想起させ、世の中が変わっていくという可能性もあり得るわけです。

 つまり、リアルは人間の共同幻想を介して、フィクションと意味を交換しながら存立しているならば、フィクションにも立派な役割があるとうことです。そして、それが公開の動機です。

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 ということで、お暇ならのぞいてみてくださいね。

 極楽(Fiction World)
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by senang | 2006-01-23 20:23 | 【0】センシブルワールド
センシブルクイズ 9
 次の文を読み、問いに答えよ。

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 発展は貧困から起こるのであって、豊かさから-多くの経済理論からうける印象はそうなのだが-ではない。
(Richard G. Wilkinson著「経済発展の生態学 -貧困と進歩-」筑摩書房;13ページ)

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問1:貧困とは何か?

問2:問1を踏まえ、自分自身は貧困だと思うか?または豊かであると思うか?

問3:問1と問2を踏まえ、自分自身は発展的だと思うか?または保守的だと思うか?
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by senang | 2006-01-23 18:53 | 【0】センシブルワールド
もやし隊、旗揚げ準備中
 「もやし隊」は雪解けの頃から本格的に活動を始めようと思います。話のついでがあれば、各方面で「もやし隊」について吹いているのですが、どうやらネーミングについて賛否両論あるようです。確かに、何かを燃やしたいのか、野菜のモヤシなのか、もやしっ子を鍛えるのか、混乱することもあるでしょう。ま、どっちでもいいんですけど・・・。
 それで、今のところは「持続的な生活に関する理論と技術を実践をベースに置いて習得するサークル」とでも副題をつけておくことにしました。

 燃やすという基本コンセプトに基づき、遊びながら生きる術が身につくプログラムを考えてみました。可能な限り、子供から大人までが楽しめるものにしていきたいです。
 例えば・・・
  火を熾してみよう!
  炭をつくろう!
  山を焼いて畑を拓こう!
  薫製をつくってみよう!(和牛ジャーキー!)
  焚き火や炭火で焼いて食べよう!   ・・・など。
 勿論、これらの活動に付随して、薪割りをしたり、窯をつくったり、畑作業なども入ってきます。煙が少ない焚き火はどうすればよいのか、焼畑をはじめとした農業で1つの家族が暮らしていくにはどれくらいの面積が必要なのか、薪はどうやって確保するのかなど、肌で感じる勉強や頭で考える勉強も同時並行させていきたいと思っています。さらに、お楽しみに終わらず、できる限り経済活動や生活に組み込むことを心がけていこうと考えています。ひいては、バイオエネルギーの利用などにも発展していくことができたら良いですね。

 この活動、できれば社会実験としてやっていけたらよいと思っています。里山との関わりを追う一方で、直接的・間接的に関わっている人の意識の変化なども計測していけたら面白いでしょう。
 最終目標は、いざ食料の輸入が止まっても、石油が枯渇しても、山に入れば平然と生きていくことのできる資源(持続的生態系から得られるもの)をつくっておくことです。さらに、それを利用する知恵と技術を身につけていなければ豚に真珠になってしまいます。そして何より、そんな生き方を支える価値観や理念を養っていきたいと考えています。特に、子供達に対して。

 ということで、そろそろ旗揚げとメンバー募集を行い、「そういうことなら焼いてもいいよ」という山主さんを探そうと思います。
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by senang | 2006-01-23 00:56 | 【0】センシブルワールド
ティピと所有意識
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 今日、ティピを建てました。アメリカ先住民の住居で、設置・解体が簡単にできます。立ててみると、平原を移動して暮らすスタイルの民族が考案した知恵がたくさん詰まっていました。平原ではなく雪原に建てたという大きな違いはあるにせよ・・・。

 それで、建てた人達と、このような簡易住居についての話になりました。遊牧や狩猟によって生計を立てる定住しない民族にとって、土地に根ざしたつくりつけの住居は使い物になりません。どうしても移動可能なものが必要ですし、動かすために傷んでしまうこともしばしばあるでしょう。なので、金ピカの細工で満たされていたり、ぶつけて困るようなつくりにはなっていません。況や、そんな価値観もないのかもしれません。価値観といえば、日本の車に対する価値観はこれに対照的ですね。壁面にこすって数cmのキズができたくらいで大騒ぎするわけですから。
 転じて、日本にこのような移動式住居があったのかなかったのかという話になりました。知る限り、ティピやパオのようなものは、歴史上で存在したということを知りません。マタギは動物を追って何日も山で暮らしますが、1カ所に留まっているわけではないため、野宿に近い簡易な雨よけをつくっていたようです。炭焼きは、窯の横にほったて小屋のようなものをつくり、家から「出張」していました。何より、マタギにしても炭焼きにしても、主として暮らす家がちゃんとあったわけです。
 結論として、日本人は移動しながら暮らすという習慣がないのではないか、だから、ティピやパオのような住居とそれに伴う文化がないのではないかということになりました。大昔はどうだったのかわかりませんが、とりあえず今日の結論はそんなところです。

 ところで、この移動式住居については、民族的習慣を超えた別の意義があると思います。移動式住居で暮らす民族は、定住しない、特定の土地を占有しません。家に対しても虚飾的ではありません。つまり、所有や執着という概念が、農耕民族(定住しなければならない民族)と異なっていると思うのです。
 もしかしたら、移動する民族の所有観や世界観を知ることは、「レンタルの思想」につながるものがあるのかもしれません。そしてそこには、地球のリズムと暮らすヒントがあるのかもしれません。
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by senang | 2006-01-21 20:20 | 【0】センシブルワールド
野蛮人はどっちだ!?
 30年前に書かれた古い本ですが、開発途上国での人口増加はヨーロッパ人(キリスト教)によって引き起こされたという内容のものを見つけました。古くても大航海時代以降のことでしょうから、おおむね18世紀以降のことだと思います。
 確かに、開発途上国はずっと前から慢性的に貧困に悩まされていたという話を聞いたことがありません。貧困は、戦乱や経済難民化(という言葉があるかどうかわかりませんが)などによって、近代以降に顕在化してきた問題だという印象が強いです。
 ヨーロッパ社会の拡大によってもたらされた布教や侵略が、先住民族に文化的攪乱をもたらしたことは確実でしょう。そして、そのことが民族や部族が守り続けてきた存続の持続性を揺るがし、ひいては人口増加と環境負荷の増加に連結しているとすれば、開発途上国における破壊行為について新しい見解を持たなければなりません。

 すなわち、「野蛮人はどっちだ」ということです。

 下記の記述によると、先住民族の慣習は必ずしも良いものではないという批判はぬぐい去ることができません。でも、それらは民族と環境の持続性を担保する知恵であるという見方もできます。
 先住民族の慣習の善し悪しはともかく、問題なのは、キリスト教的価値観がそれらを一掃してしまったというわけです。良かれと思ってやったことかもしれませんが、自分たちの価値観や文化を押しつけたことに他なりません。そして、その結果として人口増加を招きました。そして、いくつかの地域では、人口増加が森林をはじめとした環境破壊を誘発してしまいました。

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 以下は文献からの引用です。あちらこちらから抜き出していたら長くなってしまいましたので、お時間のある時にどうぞ。

Richard G. Wilkinson 著「経済発展の生態学 -貧困と進歩-」筑摩書房
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 ヨーロッパ人たちとの接触、外来の価値および習慣との接触の結果、かつては過剰人口を防ぐのに与って力があった堕胎、嬰児殺しのような習慣が放棄された。早くも18世紀の半ばに、パラグァイの宣教師は、キリスト教がアビポン(Abipones)族の間で行われていた堕胎、および嬰児殺しを廃止させたと述べている。皮肉なことに、その同じ宣教師はまた食糧がいかに豊富であったかということを述べ、その事実がこうした習慣の存在とは無関係であるかのように述べている。
(49ページ)

 たぶん、われわれが知っているのは、社会が現に土地に対する人口圧力に苦しんでいること、またその地域にヨーロッパの影響が大きくなるとただちに人口が増加し始めた、ということぐらいである。しかしながら、多くの社会にはそれらがかつては均衡状態で存在し、それが現在はいろいろな方向で攪乱されているのだという明らかな証拠がある。その社会が生態系の均衡から逸脱すると生計維持が問題となり、経済的状況は悪化し、社会はそれぞれみな危機の高まりを示している多数の難問に直面しているのに気づくようになる。
(80ページ)

 ズールー族の社会慣習に対してヨーロッパ人、キリスト教が干渉(たとえば、伝統的な一夫多妻婚は、キリスト教的な一夫一婦婚に代わっている)したために、人口は増加し、資源に対する圧迫が増加した。
(83~84ページ)

 「人口問題の反映として、避妊、独身生活、嬰児殺しがティコピア族によって意識的に行われている」とファースは述べている。しっかりした人々は子供を二人しかもたないと考えられていたし、それ以上いる家族では長男と長女だけが結婚するものと考えられていた。しかし、1929年以前の10年間のキリスト教の影響は、すでに人口増加を刺激し始めていた。(略)1952年までに、人口増加に対する伝統的な抑制法の大部分はなくなっていた。人々は以前よりも多くの子供を持ち、すべてが結婚するようになった。こうした状況は、とくにキリスト教徒ではない長老によって、「先見の明のなさ」と「責任感がうすれた」ことの結果であるとみなされた。
(88~89ページ)

 ヨーロッパ人とヴナマミ族との所有権、土地利用にかんする考え方が違っていたために争いが起きたが、1896年に、ヴナマミ族が所有権を保持したければ、向う50年間彼らの土地に定住し耕作しなければいけないというヨーロッパ式の法律が制定された。族長のイニシアティヴのもとにヴナマミ族は人口を増加させ、係争地にココナッツを栽培するという意識的な政策をとり始めた。
(91ページ)

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by senang | 2006-01-20 15:53 | 【0】センシブルワールド