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生き残ることができるのは全人口の1割!? -日本の場合-
 当然ですが、一口に森林と言っても様々です。戦後に造林されたものもあれば、あまり人の手が入らなかった林もあります。集落周辺で高度に利用され続けてきたものもあれば、人を寄せつけない険しい霊峰もあります。

 ということで、森林についてもう少し考えてみます。
 前回の記事では、日本の森林は使うことで守られてきた側面があると書きました。人の関わり方を基準として森林をとらえると、あまり人が入らない(利用しない)奥山と、動植物の収穫の場とされてきた里山に大別できることも以前に述べました。それでは、この里山と言われるエリアが日本にどれくらいあるのでしょうか。
 そもそも、里山には普遍的な定義がありませんので、何をもって里山とするのかが難しいという問題があります。そんな難しさはこの際置いといて、一説によると(下記参照)、里山は日本に6~9万平方km(600~900万ha)あり、国土の約2割を占めているとされています。

 これを元に、日本人の生命維持装置とも言うべき里山でどれくらいの人間が生きられるのかを試算してみました。

 500haの里山があれば、持続的に160~170世帯分の電力を木質系バイオマス発電で賄うことができるとされています。単純計算すると、1世帯が持続的に電力を得るには3haの「電力林」(造語)が必要になります。
 水田耕作をする場合、肥料供給源として水田の2~3倍に相当する山林が必要になります。1世帯あたり年間500kgの米を食べると仮定すると、必要な水田面積は0.1haなので、0.2~0.3haの「採草地」が必要になります。
 以上を総合すると、1世帯が暮らすには3+0.25=3.25haの里山が必要ということになります。ただし、これに加えて1世帯あたり0.1haの水田を確保しなければならないことに留意してください。むしろ、山よりも農地の確保の方が重要であると言えるでしょう。それでも、山に基準を於いた場合、3.25ha/戸という数字で日本全体の里山面積を割ると、日本の里山地帯の扶養可能世帯は約185~277万戸。今回、世帯人員を5人として計算すると、扶養可能人口は925~1,385万人となります。偶然の一致でしょうが、人口規模が江戸時代初期のものに近くなっています。
 合わせて、別の試算をしてみました。焼畑耕作の場合、1世帯が必要とする山林は20ha。これには燃料と食糧の生産に供する面積も含まれていると仮定すると、扶養可能世帯は30~45万戸、扶養可能人口は150~225万人となります。上記の世帯・人口と対比すると、水田耕作の獲得が人類増殖のブレイクスルーだったことがよくわかります。

 以上はかなり大雑把な数字を用いた乱暴な試算です。しかし、もしも日本が食糧やエネルギーを自給自足しなければならない状況に陥った時、大半の人が飢えるということを示唆しています。そして、試算がほぼ正しいとするならば、人口規模は江戸時代初期の水準、つまり現代の1割程度しか保つことができないということになります。突如として輸入が止まれば、日本人の9割は死んじゃうってことですね。
 農地を広げ、奥山を切り開いて高度利用を進めれば、生き残る割合は1割よりも増えるでしょう。それでも、国土に限りがある以上、環境容量に基づいて人口の上限を設定せざるを得ません。
 ちなみに、江戸時代末期の日本の人口は3,000万人強でした。鎖国していてもそれだけの人口を養っていたわけです。この規模が日本の国土が有する扶養能力の上限なのかもしれません。

<参考> 里山で自給するための試算
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by senang | 2006-02-05 23:44 | 【0】センシブルワールド
日本の森林は使うことによって守られてきた
 利用と持続の関係が割り箸から見えてきたと感じています。割り箸論争は十数年前に激化し、一応の決着を見たと思っていましたが、それは国内での話だったみたいですね。現在の中国産が9割を占めている実態は、持続性を問いかける新たなきっかけになっています。少しくらいコストがかかっても、食べるものや日頃使うものは地元産(国内産)にしようという運動を提起してもよい時期なのかもしれません。安さが最優先される消費社会は終わりを迎えつつあります。

 さて、割り箸から森林に話を移しましょう。手つかずの原生林が地球上にどれくらいあるのでしょう?厳密な測定は難しいのかもしれませんが、十数億haという説があります。それにしても、歴史上人跡未踏であったかどうかを検証する術はありません。
 ここで問題にしたいのは、人と森林との関わり方です。一昔前から、「緑を守ろう」といった類のスローガンを目に耳にします。緑を守るということは絶対に人の手が加わってはいけないのか、あるいは、人間による森林への働きかけが即破壊ということなのか、ということを考えてみたいと思います。

 ヒントとして、「持続可能」という概念を元にしてみましょう。

 僕は、「人間の関与=即破壊」ではないと考えています。仮に、農耕、林木の利用、有益な生物の採取などの行為が森林に及んでも、収奪したものの再生や回復が半永久的に保障されるのであれば、破壊ではありません。むしろ、人間の働きかけがあるからこそ、山は山として、田畑は田畑として、川は川としてあり続けていることもあります。そして、そこには土着の文化が息づいています。
 逆に、人間の働きかけの結果、森林であること、田畑であること、川であることを破壊してしまうケースも多く見られます。大規模な木材伐採と焼畑は、アマゾンや東南アジアで今でも行われていますし、ヨーロッパではかつて木材飢饉が起こるほど木を伐りつくしてしまい、一面がハゲ山と化しました。これらは到底「持続可能」ではありません。

 原生林を手つかずのまま守ることに心血を注ぐのも良いのですが、人間の関わりによって森林が森林として維持されている実態を見直すことも必要だと思います。特に日本の森林の場合、旧石器時代以降に人間の関与を受け続けており、人跡未踏の地はないに等しいわけです。それでも、国土の大部分が森林で覆われており、森林資源が枯渇している国ではなく、むしろ森林国なわけです。
 もっとも、戦後大々的に進められたスギ・ヒノキの造林は、必ずしも「持続可能」ではありません。そして、その結果として土壌浸食や災害を引き起こしているどころか、自国の森林に手をつけずに木材のほとんどを輸入している現状については、大きな見直しを迫らなければならないでしょう(下の写真は雪害後に間伐を行ったスギ林)。

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 人間の関与を受けながら存続してきた里山地帯には、森林の保続的利用のノウハウ、越えてはならない上限(環境容量)に対する掟、それを感じ取って自己規制を行う節度が息づいていました。それらをもっと評価してもよいと思います。

<参考>森林への関与・・・日本の場合、ヨーロッパの場合
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by senang | 2006-02-04 15:01 | 【0】センシブルワールド
耳が動くんです
 自慢にもなりませんが、耳が動きます。ただし、人間の耳の筋肉は自在に動かせるようになっておらず、自分で意識して動かそうとしても耳が揺れる程度だったりします。
 意識的に動かすこととは別に、無意識のうちに耳が動くことがあります。正確には自分でその様子が見えているわけではなく、耳周辺の筋肉の条件反射的な緊張を感じて動いていることを理解するわけです。無意識のうちに耳が動くのは、瞬発的な音がした時です。静かな時に「カサッ」とか「パチッ」とかいう音がしたり、誰かが咳払いしたりすると、耳がピクリと動きます。さすがにウサギのように背中方向へ耳が向くということはないので、不審がられずに済んでいます。

 そういうのは、森や草原で暮らしていた頃の名残なのかもしれません。身体の中には、忘れてしまった機能やリズムが意外と多くあるのかもしれませんね。
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by senang | 2006-02-03 08:51 | 【0】センシブルワールド
センシブルクイズ 10
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 この光景を音楽で表現せよ。
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by senang | 2006-02-02 21:02 | 【0】センシブルワールド
脆い日本で、アリになるか?キリギリスのままでいるか?
 日本の食糧自給率は約40%。木材自給率は20%以下。エネルギー自給率に至っては、たったの4%! 個人的には、この状況だけでも十分に危機だと思います。加えて、現代社会の閉塞感、拝金主義の崩壊、環境問題、天変地異などを並べると、日本の存立基盤の脆さを思い知ります。

 もしも、お金の価値がなくなったら?
 もしも、自然災害で輸入が止まったら?
 もしも、国際情勢がより不安定になり、石油が高騰したり入手不可能になったりしたら?
 もしも、アメリカ産牛肉や中国産シイタケのように危険な食べ物がもっと蔓延がしたら?
 もしも、もしも・・・。

 この「もしも」は、杞憂ではなく、あり得ない話でもなく、いつ起こっても不思議ではない性質のものでしょう。

 僕は仕事柄、多くの方と話すことが多く、最近は機会があればこのような話を少しずつさせていただいています。時には大勢の前で話すこともあるため、反応の多様さもリアルにキャッチさせていただいております。
 大半の方には、「自分には関係のないこと」、「自分ではどうにもできない」として片づけられてしまうようです。「そんな大きなこと言われてもなぁ・・・」という感想もよくいただきます。僕が話す相手が悪いのか、場違いだったのか、話し方が下手なのか、とにかくあまり耳を傾けていただけないことが多いです。国の職員然り、県の職員然り、そのへんのおっちゃん然り。
 それでも、危機意識を持っている方もある程度いらっしゃることを感じます。それは漠然としたものですが、決して現状が良いと思ってはおらず、可能であれば変えていきたいという意識も伝わってきました。
 さながら、アリとキリギリスです。ただし、世の中にはキリギリスの数の方が圧倒的に多いのです。

 リアクションの種類にかかわらず共通していることは、対処するための方法論を持っていないということです。アリさん指向の方も、問題状況は理解できるものの、「では、どうするか?」という部分で思考停止してしまうようです。
 このような思考停止は、現在の方法論では問題状況を打開できないということの表れなのかもしれません。今の世の中、もう限界なわけです。右肩上がりの成長曲線を延長すればするほど、その先に未来はないのです。枠組みを変えて考えなければならないわけです。その枠組みの変更に頭と行動が対応できるかどうかとなると、より少ない人数に限られてしまうことでしょう。

 いずれにせよ、理屈の次には方法論が必要だと思います。どうすべきかがわかれば行動が興るかもしれません。行動の波が押し寄せれば、キリギリスもアリに転向するかもしれません。
 方法論は、世の中のシステムを変えるという大それたものではなくてもいいと思います。むしろ、自分にできることとして具体的で身近なものが提示されなければならないでしょう。草の根的な積み重ねの結果として、気づいたら世の中が変わっちゃってたということが理想です。
 そんな方法論の基軸となるのは、右肩上がりの成長曲線ではなく、横ばい平行線です。過去100年間にわたって本流とされてきた成長曲線を捨て去り、どうすれば安定した社会、持続的な社会をつくることができるのかにかかっています。人口、エネルギー、食糧を安定させ、文化、意識をより発展させるということが、今後100年にわたって理想的な社会となるはずです。
 そんな安定化社会や持続的社会が日本で実現できるとすれば、国土の7割を占める山林地帯です。そして、社会の核をつくっていくのは里地・里山地帯です。

 僕自身、まだまだ不充分で不勉強ですが、これから方法論の構築と実践に着手しようと思います。
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by senang | 2006-02-02 18:11 | 【0】センシブルワールド
たかが知れている
 人間が思いつくことは、たかが知れているのでしょう。そもそも、漫然と考えたり感じたりするだけでは、「たかが知れている」のレベルを突破できないのかもしれません。

 盲目の人がいたとしましょう。そして、歩行を手伝うガイドさんもいます。歩き出すための物理的な準備は既にできていても、足を1歩ずつ出し続けなければ前に進めません。つまり、歩こうとする意思が必要なわけです。
 人々の興味が「今日のご飯は何にしよう?」程度のものだったとしましょう。感動的な話を聞いても、数分後には語り手の真ん前で居眠りをしてしまうかもしれません。

 人間が「たかが知れている」で終わらないためには、歩行ガイドや語り手のような、外部の助けが必要なのではないかと思うことがあります。それは人格のある存在だけではなく、自然現象のようなものなのかもしれません。そして、その助けを活かすには、やはり考え続け、感じ続けていかなければならないのだと思います。もっとも、時には一般的な思考や感受性とは根本的に異なるアプローチ方法がいるのかもしれませんが・・・。
 地球のリズムや宇宙のリズムを知ろうとする時、脳で考えながら感覚をガイドにすれば、情報を統合してリズムに感応していくことができるのかもしれないと思います。

 現代人に対して、真に知らなければならない情報は既に投げかけられており、それを知るための助けも存在しているのかもしれません。しかし多くの場合、それを知らないから安穏としていられるのでしょう。いえ、知ろうとしないから安穏としていられると言った方が正確です。

 最近、正体のはっきりしない焦燥感にとらわれるようになりました。個人的な焦りならそれでよいのですが、何か重大なことが起こるのかもしれません。同時に、このトンネルの先には新しい光が存在するという感覚も持っています。
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by senang | 2006-02-01 21:47 | 【0】センシブルワールド
危機を乗り切った江戸時代
 人類が生き残り、地球が持続的な状態であり続けるためには、20世紀的な成長をやめて安定化を指向する必要があります。成長と安定を象徴しているものが人口であり、人口の増加、増加抑止、安定について記述された文献も多く存在します。

 日本の江戸時代は人口がほぼ横ばいであったこと、今になって当時の社会を見直そうという動きがあることなどから、安定した社会と見ることができるでしょう。またある本では、崩壊せずに生き残りに成功した社会としての評価もなされているところです。
 江戸時代の安定がどのようにもたらされたのかについては、検証と議論の余地があると思います。個人的に興味深い点は、それが痛みや不満を抱え込んだ権力者による抑圧だったのか、自制的・自主的な制約によるものだったのか、という点です。

 これから安定化社会を目指す場合、できれば自制的・自主的な制約による方法であってほしいと願っています。しかし、そのためには多くの人の間で高い意識レベルの共有が必要であり、そのハードルは高いと考えざるを得ません。
 江戸時代の安定が抑圧のみによるものではなく、日本人の精神性による自制が少しでも見られるのなら、そこにわずかな望みを探してみたいと思います。

<参考> 江戸時代は抑圧社会だったのか!?
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by senang | 2006-01-31 20:34 | 【0】センシブルワールド
上空より
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 我が家の上空から撮った写真。右端に見えるのは町一番の繁華街です。田んぼや山の状況から、撮影時期は晩秋だと思います。
 これを見ていると、あたかも自分が上空に浮かんでいるような感覚がして、裏返ってそのまま落下するような錯覚に包まれます。

 自分の行いを違った角度から眺めてみるのは面白いものです。
 いつも決まった道を通り、家に帰って寝て、朝が来て再び出かけて行くという生活を繰り返しています。反復運動です。仮に、一生懸命にやってきたつもりでいても、もしかしたら一生懸命さが足りないのか、一生懸命のベクトルが違っているのかもしれません。そんな気になりました。

 自分の行いを違った角度から眺めてみるのは面白いものです。
 こうやって上空から見てみると、これまでの様々なことがいかに平面的だったかということを痛感します。今やろうとしていることは確かなんだろうか?考えていることはこれで良いのだろうか?もっと立体的な見方だってあり得るのではないか?そんな気になりました。

 自分の行いを違った角度から眺めてみるのは面白いものです。
 意識したのか無意識だったのかに関わらず、他者や社会に対して行った行為、偏見、無学、誤解は自己に跳ね返ってきます。そしてそれは、正面から受け止めて自分で消化するしかありません。自分自身の問題です。勉強しなければならないことが多い。そんな気になりました。

 自分の行いを違った角度から眺めてみるのは面白いものです。
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by senang | 2006-01-30 19:52 | 【0】センシブルワールド
生物はなぜ陸に上がったのか?
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 水が豊富にあり、そのほとりから木々が広がっている風景を見ると安心します。水と森は生物相の多様性と量的な豊かさを維持しています。このような風景に安心感を覚えるのは、古くから森の中で暮らしてきた本能が現代の人間にも息づいているからなのかもしれません。

 地球上の水の総量に対して、人間も含めて陸上の生き物が使うことのできる水はごくわずかです。そしてまた、水も環境容量を司る要素の1つです。つまり、地上の生き物の命綱はかなり細いということになります。
 ではなぜ、生物は海から陸へ上がったのでしょうか?そして、なぜ淡水に依存して生きるようになったのでしょうか?水のことだけを考えても、海の中の方が生きやすいと思います。また、海の中であれば縦横の空間を自在に使うことができます。海底にくっついていなくても、海水面に沿って生物相が分布できれば、地上より生存可能面積は広く、太陽エネルギーも得やすいでしょう。

 そんな進化の選択肢があってもよかったのではないかと思います。

<参考> 0.7%の命綱
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by senang | 2006-01-27 20:07 | 【0】センシブルワールド
新・進化論 3.5(おまけ) UFOに乗っているのは誰?
 下の話の続きです。

 息子は「UFO=宇宙人の乗り物」と考えていたようです。しかし、万が一UFOがあったとしても、それが宇宙人の乗り物とは限らないワケです。証明されているわけじゃないですから。そう言うと、「じゃあ、誰が乗ってるの?」ということになりました。

 僕は小さい頃、よくUFOを見かけました。勿論、何かの見間違いであったという可能性は大きいです。間違いだということも含めて、あれらは何だったんだろう?

 そんな父と子の疑問に対して妻が出した結論は、「あー、UFOには未来人が乗ってるんだよ。」ということでした・・・。
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by senang | 2006-01-27 01:28 | 【0】センシブルワールド