カテゴリ:【0】センシブルワールド( 139 )
「危機意識こそ必要だ」!?
 先週から今週にかけて、講演や研修講師ということで話しまくっています。2日と空けずに出かけています。これまでの記事にも書いたとおり、話す機会があれば、現代文明は方向転換の必要性があること、食料やエネルギー自給を例として日本の存立基盤はとても脆いこと、生き残りの突破口として里山復興に可能性が秘められていることなどについて必ず触れるようにしています。話す本題が異なっていても、これらはあらゆることにつながる問題ですので、導入部分として話すようにしています。
 今日も、例によって1時間ほど話した後、会場からご意見をいただきました。僕の話の中で、持つべきものは危機意識だけではなく目的意識も必要だという趣旨のことを申し上げたところ、「危機意識こそ必要だ」というご意見でした。その理由をかいつまんで述べると、大半の者には目的意識などなく、危機感を煽らなければ目が覚めないというワケです。
 この方は含蓄のある持論も披露されました。「危機」には2つの意味が含まれているということです。つまり、「危」は危険を表し、「機」は機会(チャンス)を表すということ。なので、単に「危機=大変だ!」ではなく、「大変だけどチャンスもある」ということです。なるほど。

 講演後、地球や日本、子や孫のことを考えろと言われてもピンとこないという意見もいただきました。100年先のことなんて現実感がなく、せいぜい自分が死ぬまでの時間を考えるのが関の山だと・・・。ま、それが実態なんでしょう。

 時と場所と、そして何より人を選ぶ必要がありそうなテーマですが、今日は意識の高い方に巡り会うことができました。そして、その思いが地に足の着いた活動につながっていくことを願っています。
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by senang | 2006-02-13 23:01 | 【0】センシブルワールド
センシブルクイズ 11
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世界はこれから、黄昏ようとしているのか?明けようとしているのか?
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by senang | 2006-02-13 12:19 | 【0】センシブルワールド
過疎問題をめぐるズレ -前提としている時間と空間の違い-
 日本の農山村の場合、次のことは明らかです。
  ■過疎は止まらない。
  ■世界的に人口過剰である。
  ■よって、人口を増やすより、少ない人口で持続的な社会を目指すべき。
  ■都市化(工業化)の論理では、そうすることは不可能である。
  ■そもそも、現在の都市化(工業化)を成長させればさせるほど危機である。

 昨日もまちづくり関係のシポジウムがあり、このようなことを述べさせていただきました。同席のとある大学の先生も同じ論調であったため、2人して「人口増やせ論」から軌道修正しようということを提言した形になります。
 これに対して、終盤に聴衆からの反論があり、「色々やったが過疎は止まらなかった。でも、それなりに頑張ってきたんだから、そんなことを言われるのは心外だ!」と声を荒げていらっしゃいました。良いか悪いかは別として、これが今の農山村の一般的な考え方だと思います。
 個人的には、その努力を否定しませんし、これまでの頑張りを称えたいと思います。その一方で、話がかみ合わないという実態を少し丁寧に見ていく必要があると感じました。

 このズレは、物事を考える際に設定した時間と空間の違いに端を発すると思います。例えば、1960年代から現在までの約40年間について農山村の現状を考えた場合、人は減り、里山の価値はなくなり、地域の元気がどんどんなくなっていきました。そんな“危機的な”状況を目の当たりにして、意識ある人は何とかしようという必死になって行動してきたことでしょう。これが農山村のごく一般的な状況です。一方、過去数百年にわたって日本あるいは世界という空間を設定して考えると、爆発的に人口が増えたのはlここ100年間のことであり、歴史的にも異常であったと言えます。そして、世界で人口が右肩上がりで増えている中、人が減っているのは(安定化に最も近いのは)日本の農山村です。
 問題は、時間と空間の設定の違いであり、お互いに共通の設定をしていなければ話がかみ合わないのは当然ですね。まずはその作業がとても重要だと感じました。

 シンポジウムでは時間がなかったので、反論に対して十分なリアクションができませんでした。それでも、このように反論していただけるという点に将来性を感じたところです。何も感じずに座っている人の方が大勢を占めている中、少なくとも自分のビジョンを持ち、行動する気概があるわけですから。
 時間設定と空間設定を同じにすることが必要ですが、農山村ではお年を召した人、外へ出たことのない人が多い実態からすると、ものの見方や考え方が固定化されてしまっていることが大きな障壁になりそうです...。
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by senang | 2006-02-13 10:10 | 【0】センシブルワールド
「死ね!」
 先日、「農村の将来を考えるシンポジウム」なるものに出席しました。熊本大学の徳野貞雄教授がメインアクトのこのイベント、ここしばらくではかなりインパクトのあるものでした。徳野氏には7年前と5年前にもお会いしていますが、芸風に一段と磨きがかかっていました。
 ステージ上の徳野氏を一言で表すと、カンニング竹山です。そのまんまです。九州弁混じりでエキサイトし、怒り、否定し、風貌も酷似しています。
 芸風が芸風なだけに、到底「素敵」とは言えませんが、お話しになる内容は十分に知的で真実をえぐっていますので、このカテゴリに入れさせていただきました。

 さて、その徳野氏。ご自身は農村を歩き、そこに住むヒトのことを考えるプロだと自称し、痛烈な農政批判を展開いたします。農家にも消費者にも牙をむきます。例えば、農作物の価値がわかるかわからないか、それに見合った対価を払うか払わないかという2軸で消費者を分類した話をしている時のこと。「価値もわからん、金も払わんようなヤツは死ね!こんなヤツらは相手にせんでいい!」と言い放ち、「死・ね」とホワイトボードに書き殴ります。また、「安全安心な食べ物を求めていると言いながら、スーパーの輸入農産物の前に並んでいるババァ、こいつら分裂症だ!」という診断もいたします。
 200人以上の聴衆を前に、「取り扱い注意」の張り紙をしたくなるような講演でしたが、農村のおっちゃん達にはとても良いショック療法になったことと思います。

 右肩上がりの成長に大して、地球規模の方向転換が迫られていること、先進国の中でも日本の存立基盤はとてつもなく脆いことを背景に、最近の僕は、里山の復興によって現状を克服することが可能だということを吹いて回っています。里山には、食糧も、水も、エネルギー(バイオマス発電など)もあります。これらを持続的に利用することによって、危機的な地球の中で生き残る余地が生まれます。
 里山の復興は、まさに先日のシンポジウムが対象とした農村が舞台です。農村では過疎・高齢化が問題視されて久しく、今も30年前と同じことを言い続けているわけです。しかし、過疎化が問題ではなく、むしろ歓迎すべき兆候であると同時に、今後は少ない人口でいかに良い暮らしを構築するかという発想の切り替えが必要です。
 以前の記事にも書きましたが、そんなことをさらりと話しても行政や農家の手応えは薄く、手法を変える必要があるのかなぁと思っていたところです。新たな芽を摘み、愚痴しか言わず、何事も本気で考えようとしない人に対しては、「死ね!」くらい言っちゃっていいのかもしれませんね。もっとも、僕が言うと袋だたきに遭いそうですが...。
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by senang | 2006-02-11 22:25 | 【0】センシブルワールド
生き残りのためにどちらを選択するか?
 現在の世界の人口はおよそ65億人。どの国の人々も貧困や食糧不足から解放され、戦争や争いに巻き込まれず、全ての人が高い水準の生活を送ることは、人道的見地からある意味当然のこととされており、大きな目標にもなっていることと思います。その意思に沿って、国と国との間で民間や政府機関の援助も展開されています。
 一方、地球のポテンシャルを洗い直し、そこで扶養できる人口を算出し、適正規模を維持するという発想も必要だと思います。その場合、現在の人口はきっと多すぎるはずですから、好むと好まざると選別を意識しなければなりません。増えすぎた人間に対して地球がバランスを取ろうとしていて、実は既に選別や淘汰が進められているのかもしれません。

 いずれも、根本的課題は地球と「人間圏」のバランスが崩れていること、また、それをどうやって取り戻すか、ということです。これは単純な問いかけではありますが、基準が人間社会なのか環境容量なのかという点で、まずは目標の設定が全く異なります。さらに、目標へ至るアプローチも別ものとなります。

 いずれかの選択が迫られているとなると、それは人類の大きな分かれ目になり得ます。そして、どちらの考え方が現実的(=地球にとって持続的)か...?僕は断然後者だと思います。
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by senang | 2006-02-11 01:36 | 【0】センシブルワールド
心のやり取りを可能にする小規模農業
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 農作物をつくっている人と買う人が商品をはさんで会話をします。野菜のことは勿論、世間話や、子供のことや、町のことなどに話が広がります。農作物をつくっている人同士も、出会えば今日の調子はどうかなどと話に花が咲きます。
 本来、市にはそんな交流がありました。「交流」と文字にすると何となく定型的ですが、そこには一期一会の温かさや賑わいがあります。それに触れるために人が集まってきます。

 流通・輸送が発達したこともあり、今の日本ではスーパーで機械的に物を売り買いすることが主流となりました。そうなると、農家が自分のつくったものを持って都会のスーパーへ行き、消費者と「これ、取れたてのホウレンソウ。私がつくったのよ。食べてみて!」なんて会話を毎日することは、限りなく不可能に近いですね。

  市は、物のやり取りと一緒に、元気や「ありがとう」もやり取りします。毎日活気が溢れています。それは農業の醍醐味でもありますが、大量産地化&マス流通に乗っかった農業では不可能です。心のやり取りは、小規模だからこそできるものです。
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by senang | 2006-02-11 01:09 | 【0】センシブルワールド
やはり経済性の欠落が気になります
 やっぱり経済性についての指摘が欠落している点がどうしても気になるので、もう少し突っ込ませていただきます。著者さんを批判するわけではなく、むしろ里山の放置と管理についての考察が深いだけに、本筋の話に触れられていないのはもったいないなぁという気がする次第です。

 里山の放置は、ズバリその価値がなくなったからなのではないでしょうか?かつてから里山は、燃料、食糧、用材の生産フィールドであったわけですが、近年は外国からの輸入品に取って代わられてしまいました。手をかけてもしょうがないから放置されたというわけです。従って、里山の保全活動を興そうとするならば、里山の本来的価値を取り戻すという作業を避けて通っていては成功するはずがありません。

 手入れは必要です。ただし、手入れはあくまでも手段であり、目的がない手段はあり得ません。「安定」、「持続」、「自給」といったコンセプトを持ちながら、里山が扶養可能な人口水準(確保と維持)、管理のための技術や知恵(開発と伝承)、里山生態系を基盤に置いた生活(構築・普及)などを考えて実践していくことが当面の目的なのではないかと考えます。

<参考> 保全以前に、なぜ里山が放置されたのかを考えるべき
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by senang | 2006-02-10 00:06 | 【0】センシブルワールド
ボランティアで里山に関わる意義
 少し前、森林保全のために間伐を行う「緑の十字軍」や「草刈り十字軍」というものがありました。これらは基本的に、意識のある市民がボランティアで参加するというものです。環境意識が高まり、森林作業や里山保全に意識のある市民が注目し、実際に行動を起こしています。今では何百という森林や里山関係のボランティアグループが存在しています。さらに昨今では、子どもの居場所づくりや自然体験という視点から、新たな働きかけが行われています。
 森林や環境の分野を受け持つ行政サイドも、このようなボランティアの動きを重視し、推進する事業や情報の集約・発信を行っています。日本型グリーンツーリズムがこれに呼応する形で興り、観光的側面も含みながら多様化してきてもいます。

 ボランティア、それなりにいいんじゃないでしょうか。意識の高い市民の増加は良いことです。しかし、ボランティアによる里山保全については、「何かが違う」という感じがしてなりません。その原因をちょっと考えてみました。

 まずはボランティアというものの考え方を整理します。ズバリと核心を突いているCAINさんの記事がありますので、僕が下手な理屈をこねるより、まずはこちらをご覧ください。
「。*・。ボランティア。・*。」cAiN─casting around inviolate nature─より

 それでは、ボランティアで森林保全や里山保全をする意味は何なのでしょう?ボランティアを広く解釈したところで根本的には自分のために行う行為であるならば、他者の山を管理することが自分にとって何らかのメリットをもたらしているということになるわけです。例えば、日頃から木のないところで暮らす人にとって、週末に自然の中で汗を流すことが健康的だとか、山作業がこのうえなく楽しくてたまらない趣味であるとか、作業した後にいただくおにぎりが美味しいとか。
 勿論、それは否定されるものではありませんし、社会に役立つことをしているわけですから、ゴルフやパチンコに行くより何百倍も有益だと思います。
 そのうえで、敢えて個人的な意見として述べさせていただきます。森林保全や里山保全は、余暇活動の一環のようなボランティアのみで継続させることは難しいと思います。森林や里山を趣味や癒しや自己実現のためのフィールドとして評価することには無理があります。いくら「市民」(日本にはそもそもcitizenが存在するのかという疑問もありますが)の環境意識が高まったからといって、山作業の労働力としてボランティアを重視する行政はもってのほかと言えるでしょう。
 本来的な森林保全や里山保全は、経済性が伴っていてはじめて活きてきます。経済と言っても、森林や里山はお金を稼ぐ資本という単純なものではないので、「生きる糧」と表現した方がより正確ですね。あるいは、生活の一部(または全部)を賄うものと位置づけてもよいと思います。わかりやすく言えば、山で収益を得ること、エネルギーを得ること(バイオマス発電など)、食糧や生活資材を得ること(焼畑、アグロフォレストリー、林業など)といったものにつながっていかなければ、いくら手入れをしても「何のためにやってるの?」ということになってしまいます。里山環境は使って維持するという趣旨のことを以前の記事で述べましたが、それはまさにこういうことを意味しています。
 山作業は楽しいだけではありません。危ないこともあります。肉体的に大きな負担がかかります。ヘビもいますし、スズメバチの襲撃にも遭います。生き物を相手にしようとすれば、「今日はかったるいから休もう」と言ってられないこともあります。なので、本気でやるのなら、自分の意に反する(ボランティアだけでは包摂しきれない)行程も発生します。
 「こならの丘」の管理がボランディアで難しかったというのは、経過を読む限り、金銭的な問題でもなく、マンパワーの不足でもなく、目的の認識が曖昧で、そのうえに手段も十分に構築されていなかったということが本質ではないかと感じました(下記参照)。

 参考文献とした「里山の環境学」からの引用を下記に挙げています。この本は、様々な角度から里山を論じていてとても勉強になるのですが、里山林の管理主体としてボランティアに何を期待しているのかわからない以上に、そもそも里山を何のために管理するのかという目的の設定がちょっと甘いかなぁと感じました。自然・文化遺産の保全と位置づけられていては、博物館と同じじゃないかと・・・。
 里山は決して博物館などではなく、本来は生態系の命のせめぎ合いの場であり、生活の場であり、持続可能を原理とする安定・安心を保障する場であるわけです。常に生きています。動いています。これにボランティアという手段で関わるとしても、ある程度の腹をくくり、真剣さが要求される局面も多くあることを認識しなければなりません。

<参考> 里山の経済性はどこへ行った!?
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by senang | 2006-02-09 23:37 | 【0】センシブルワールド
雪国の暮らし方
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 昨夜から雪が降り出し、現在の積雪量は約70cm。寒い雪国の生活は、暖房費、長靴、除雪のための用具、スノーターヤなど、暖かいところに比べるとお金がかかります。雪道では車が事故を起こす確率も格段に上がりますので、そんな時は修理や保険のための支出は高額&突発的で、時にはかけがえのない命というお金では換えられないものを失うこともあります。今日も、「こんなとこ、もうイヤだ」という話を聞きました。生活者にとっては、不便という言葉では言い尽くせない不安や負担があるのでしょうね。お察しします。
 しかし、同じ生活者としての立場で言わせていただきますと、厳しいと嘆くより、自分は雪国に住んでいることを受け入れればよい、雪国ならではの暮らし方を身につければよい、それだけのことです。他と比較するから厳しいわけです。さらに雪国ならではの生活を楽しめればなおヨシなわけです。
 暮らし方の知恵と技術といえば、例えばこんなことでしょうか。寒い日は水道が凍らないように少しだけ水を小出しにするとか、軒先に伸びたツララが窓ガラスを割らないように早めに折っておくとか、圧雪道路を車で走る時はブレーキをかけないとか、ワイパーが雪の重みで折れないように夜間は立てておくとか、駐車場の除雪面積が少なくて済むように車の停め方を工夫するとか、除雪作業の時はすぐに体温が上がるから厚着をしないとか・・・。そういうことを身につけていれば、「あちゃぁ!」ということは格段に減ると思います。
 現代社会の知恵以前に、暮らし方の知恵は昔からたくさんあったのでしょうね。そして、寒いところには寒いなりに、暖かいところには暖かいなりに、ところ変わればその地に合った知恵があります。
 自分の気持ちとやり方を基準に考えるのではなく、好奇心を持ちながらも先入観をなくし、謙虚になれば、自然と知恵がついてきます。それ以上に、痛い目に遭うことで教訓が否応なしに身体に叩き込まれるという学習の方が強烈ではありますが・・・。
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by senang | 2006-02-08 23:08 | 【0】センシブルワールド
ノスタルジー
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    里地、里山、里川。
                   町並み、家並み、営み。
                                     暮れる、佇む、帰る。
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by senang | 2006-02-06 13:43 | 【0】センシブルワールド