複層的なコミュニティ・レイヤーの必要性
 現在、統一地方選で賑やかです。昨日はイベントをしている公園にまで選挙カーが乗り込んできて、お客さんはとても迷惑そうでした。知り合いの県議会議員だったのですが、「あれで票が逃げていったのでは・・・」「選挙活動、逆効果だったのでは・・・」と、いらぬ心配をしたところです。

 さて、一般的には多数決で物事を決めることがよくあります。選挙もその1つですね。得票数が多い候補者が当選します。
 個人的には、多数決が必ずしも良いとは思えませんし、ある局面においては多数決はナンセンスであるとさえ思っています。例えば、人類の発展のためにとても良い公約を掲げていても、大衆にとってそれが目先の利益につながらなければ理解されません。理解されなければ票にもつながらず、現実のものとはなりません。
 多数決がナンセンスだという考え方は、言い換えれば物事の判断や決定を大衆に委ねてしまって良いのかという疑問の裏返しでもあります。多数決の場で「住民の声を・・・」とか、「国民の思いを・・・」と有権者を鼓舞しても、その声や思いの程度が低いこともしばしば。

 日頃の経験則から、僕は1:2:6:1ということを感じています。これは、大衆の中で何らかの課題が生じた場合などに、有益な対応策を出す者が全体の1割(本当は1割に満たない)、出てきた対応策に賛同して主体的に動こうとする者が2割、その場の雰囲気(世論)で何となく賛成~反対の間をフラフラしている者が6割、強固な抵抗勢力が1割というものです。
 多数決をする場合、最多層の6割をどう誘導するのかが鍵を握ります。単純に考えれば、対立する者(両極の1割と1割)間の綱引きということになります。選挙に置き換えると、フラフラしている浮動票を自分の方へ誘導するためにやかましく演説をするということになります。それで効果があるのかどうかは別として。
 必ずしも大衆意見が正しいとは限らないこと、さらに、多数決に危うさがつきまとうことは、コミュニティ単位の取り決め事ともなれば尚更色濃くなります。小さな世界のルールに沿って判断と決定がされていくわけですから、一般的な価値判断が通用しないこともよくあります。狭い社会にどっぷり漬かって生きてきた人にとって、日本全体や世界の話をしても耳を傾けようとしないこともあります。「○○地区の常識は世界の非常識」といったこともよくあります。

 これを変えるには、大衆のレベルを上げるか、多数決に依らない判断・決定の手法を採用するしかないと思います。両方必要なことなのですが、環境問題を筆頭に、前者を待っているとタイムアップとなってしまう案件もあります。
 コミュニティ単位で意思決定の手法を変えることは、これまた多大な労力を要します。ならば、いっそのことコミュニティの様相を変えてしまうことも1つの有効策ではないかと考えているところです。
 それは地縁のみにとらわれないニュータイプの「結」(互助機構)のようなものです。今はまだ仮想の話ですが、生活のルールを「循環」「自給」「浄化」に設定し、複数人や複数家族がそれに基づいて生きるとします。そして、食料や燃料の確保と生産、暮らしまわりの作業など、1人や1家族単位でできないことをコミュニティの構成員が補完しあいながら生きることが想定できます。

 フラフラ層の6割に振り回されず、抵抗勢力からのノイズが入りにくくし、仮にノイズが入っても目的を実現するためには、縦横に複数のコミュニティ・レイヤーを築いておくことが必要なのかもしれません。
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by senang | 2007-04-02 19:38 | 【2】コミュニティ
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