風呂釜の炎
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 我が家の風呂は薪で焚きます。一応、灯油を使う給湯器があり、蛇口をひねれば瞬時にお湯が出てくるのですが、使っていません。自給をテーマにしているから使わないというだけではなく、給湯器のお湯は何となく重みがないのです。「重みがない」というのはとても抽象的な表現ですね。何というか、熱がないというか、暖まらないのです。薪風呂は、身体の芯から暖まります。ぬるいように感じても、しばらく湯舟に使っているとじわーっと暖まってきます。
 風呂を沸かすため、家の者の誰かが風呂釜の前に座って火の番をします(写真は風呂釜で薪が燃えている様子です)。1日1時間。1ヶ月で30時間。手間暇がかかります。この時間をどのように解釈するのか...?

 貴重な1時間を他で有効に使うのか、火を見つめながらぼーっと釜の前に座っているのか、どちらが良い過ごし方だと思いますか?

 時間の価値や過ごし方は人それぞれだと思いますが、風呂に入る準備だけに毎日1時間をかけている人は、今の日本では少数派なのかもしれません。僕は、こう考えるようになりました。
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 毎日1時間ずつ、火の扱い方を学習する機会を得ています。毎回が学習です。同じ火は二度としてありません。昨日は上手く焚けたと思ったら、今日は煙だらけ。気がついたらアッという間に火が消えてしまっていたということもあります。
 また、気持ちを落ち着ける修練をする時間でもあります。不思議なことに、焦って手を出すと、効率良く火が燃え上がりません。風呂に入る時間が余計に延びてしまいます。
 さらに、揺れる炎を見ながら色々なことを考えるチャンスでもあります。漫然とテレビを見て過ごすより、じーっと炎を見つめていると新しい発想が出てくることもあります。アイディアが湧いて風呂も沸く。一石二鳥です。

 こんな感じで、毎日、生の火と対峙します。生活の中にそんな時間を取り入れることは、物事に対する考え方や日々の生活に少しずつ影響が出てくると思います。
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by senang | 2006-11-14 18:22 | 【2】環境との対話
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