持続的な社会のフィールドとして、僕は永続的な資源供給が可能な農山村(過疎地域、中山間地域、里山地帯)を念頭に置いています。このエリアをめぐる見解を少し紹介いたします。
国の過疎地域振興の担当者によると、首都圏で農山村の必要性を説いたところで、ほとんどの人が理解を示さないということです。まず、このようなところへ行ったことがない。もう外国くらい遠い世界のような感覚であるとさえ言っていました。日本の国土の7割が農山村なのですが、その中で都市部の人が行ったことがあるのは、せいぜい観光地化されたところくらいでしょう。日本の人口の7割が都市部に存在していることを考えると、日本人は国土の3割程度しか知らない者が大半で、そこで世論が形成されていることになります。
日本には様々な暮らしぶりがありますが、数の論理で無視されているという解釈もできます。それぞれの地方に伝わる風習やその地に密着した生き方は、資料の世界となっていく・・・。何とも偏りの大きな国です。
過疎地域に対しては、敵視している者までいるとのこと。要するに、都会で集めた税金をなぜ人のいないところへバラ播かなければならないのかということです。自分たちの貴重な税金をどうして・・・ということで、敵視しているのでしょう。生活条件が不利な農山村の住民に対して、「好き勝手に住んでいるんだから放っておけばいい」「そんなに不便なら便利なところへ出てくればいい」と言われます。
国の担当者は、首都圏で過疎地域振興の話をするのは、アラビアあたりへ行って観客が敵ばかりのスタジアムでサッカーの試合をするようなものだと表現していました。日本人の数量からすると、我々はごく少数の者=スーパー・マイノリティだということになります。
メジャーであろうがマイナーであろうが、聞く耳を持たないのならいくら言っても無駄だというものです。しかも、敵視しているのであれば、農山村の存在を強調すればするほど火に油を注ぐことになるでしょう。それに、多勢に無勢です。
そのうち人類は分化すると思っていましたが、既に意識の面では分化してしまっているのかもしれません。同じ人間という種、しかも同じ日本人でも、共通体験を持たないわけです。
2020年あたりに資源状況がガラッと変わった時、資源のない都市側の欲求は目に見えています。その時、農山村側の人間がどう対応するのかが問われることになるでしょう。