「逆転」に備える -近代化の最後尾集団より-
 ここしばらくの活動から得た印象として、「逆転」ということを感じています。

 最近の僕は、化石燃料の消費を減らそう、食糧やエネルギーの自給を高めよう、少ない人口で安定した社会をつくろう、そのために里山復興を旗印に掲げようということを吹いて回っています。今日も、広島県にある過疎・高齢化が著しい地域のみなさんと、そんな話をしていました。話の最後におじいさんが手を挙げ、僕がお話しさせていただいた点は大事なことだと受け止めてくださり、実情を語ってくれました。「我が家は薪で風呂を焚いていますが、木を伐りだし、イノシシの穴掘りに対抗しながら運搬のための道を直し、帰ってきて薪割りをするなど、風呂に入ること1つを取ってみてもえらい苦労なんです。それでも、木を使うということが再びできるんでしょうかねぇ。」とのことです。
 確かに、1人でこの工程を全部やろうとすると、ものすごい重労働です。実際にやっているおじいさんは凄いと思います。1人で山仕事をしていてクマに出会ったらどうするんだろう、伐採中に事故に遭ったら助けも呼べないんじゃないか、などと心配もしてしまいます。

 おじいさんは続けます。「チェーンソーの手入れの仕方も、最初は誰も知りません。勉強をして実際に手入れをするようなことを集落でやってみるなどは、できんもんかなぁ。」
 共同体やコミュニティという概念は、生活を維持するために住民が協力するという組織を指すものでした。日本の場合、農作業を行うために集落のみんなが総手で手伝いあい、山の管理も共同で行っていたものです。それが生活維持機能や発展的な側面がある一方、規律や掟、慣習といった制約条件にもなっていました。
 昔の共同体社会を見直すことは、ある意味において必要だと思います。おじいさんが1人で薪を取りに行くより、みんなで分担しあった方が作業効率は格段と良くなり、危険分散もできます。ただし、昔の「隣組」や「五人組」、「出る杭は打たれる」的な共同体社会ではなく、今の社会情勢に合った仕組みや掟として再構築する必要はあるでしょう。
 いずれにしても、「できる」「やろう」という意思が肝心。この方と一緒に、また、周辺の集落と一緒に、新しい活動を始めることができるのではないかと感じました。

 このような話をする時に共通理解が得られるのは、巷で「過疎・高齢化で厳しい状況にある」と分類される地域であることが多いからです。中途半端な田舎(転じて中途半端に都市化しているところ)では、あまりピンときていただけません。今日の山仕事の話にしても、先般の「もやし隊」隊長発見!で述べた話も、多少なりとも共感していただけたのは「限界集落」と評されるところでした。
 このような地域は、近代化が進む日本の最後尾を走っているのかもしれません。しかし、諸々の社会状況や価値観が変わり、クルリと反対を向かなければならない時にはトップ集団になります。それはまさに「逆転」現象であり、一縷の望みになり得ると言えるでしょう。
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by senang | 2006-02-19 16:20 | 【0】センシブルワールド
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