やはり経済性の欠落が気になります
 やっぱり経済性についての指摘が欠落している点がどうしても気になるので、もう少し突っ込ませていただきます。著者さんを批判するわけではなく、むしろ里山の放置と管理についての考察が深いだけに、本筋の話に触れられていないのはもったいないなぁという気がする次第です。

 里山の放置は、ズバリその価値がなくなったからなのではないでしょうか?かつてから里山は、燃料、食糧、用材の生産フィールドであったわけですが、近年は外国からの輸入品に取って代わられてしまいました。手をかけてもしょうがないから放置されたというわけです。従って、里山の保全活動を興そうとするならば、里山の本来的価値を取り戻すという作業を避けて通っていては成功するはずがありません。

 手入れは必要です。ただし、手入れはあくまでも手段であり、目的がない手段はあり得ません。「安定」、「持続」、「自給」といったコンセプトを持ちながら、里山が扶養可能な人口水準(確保と維持)、管理のための技術や知恵(開発と伝承)、里山生態系を基盤に置いた生活(構築・普及)などを考えて実践していくことが当面の目的なのではないかと考えます。




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竹内和彦・鷲谷いづみ・恒川篤史編「里山の環境学」東京大学出版会

 里山の放置された雑木林の保全活動が盛んになっていくのは、1980年代である。そこにはつぎの理由があると思われる。
 (1)1980年代に林道や湿原の開発計画に対する自然保護運動が、保全活動に先行して起きていたこと。自然保護は生物学者だけの問題ではなくなり、市民レベルで考え行動する時代になったことを意味している。
 (2)雑木林の放棄が30年ほど経過し、もとの雑木林とは異なり、生物多様性の低い樹林に変化していることがわかってきたこと。
 (3)酸性雨による森林衰退、熱帯林の破壊、砂漠化といった地球規模の問題をつきつめると、生活水準の向上にともなう大量消費型のライフスタイルそのものに由来していることが市民レベルでわかり始め、環境という言葉が身近な存在になったこと。
 (4)都市近郊にできたニュータウンに移り住んだ住民は「団塊の世代」が中心であり、自然に対する関心が高く、身近な里山の雑木林保全活動が生まれやすかったこと。
 1980年代後半になって森林を市民の手で管理する保全活動が生まれてきた。これには2つの流れがある。ひとつは山地を対象とした森林支援活動で、管理不足の人工林を支援する林業的色彩の強い活動である。もうひとつは、里山・里地保全の活動で、雑木林あるいは里地全体を対象としたものである。
(中川重年;127ページ)

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by senang | 2006-02-10 00:06 | 【0】センシブルワールド
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