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その日暮らし
 その日暮らしで生きている人は狩猟採取民族の血を引いているのかもしれません。最も原初のその日暮らしは、手を伸ばせば食料があるということではないかと思います。蓄えておかなくてもよいということです。獲物を追って汗を流すことはあったでしょうが、狩猟採取という生き方は、基本的に豊かな条件でしか成立しないというわけです。
 一方、農業は食料を人為的に確保する目的があります。慢性的に豊かではない条件のもとで発達したのではないかと思います。もしかしたら、自生している木や草から食料を採取するより、大きな労力を必要とするのかもしれません。そして、収穫物は来シーズンまで蓄えておかなければなりません。その日暮らしができないのです。

 これ、狩猟採取民族と農耕民族が根本的に違う部分だと言えると思います。そして、そんな生活スタイルの違いは、必然的に文化の違いにもなっていきます。
 今の時代、その日暮らしといえばいい加減の象徴のような感じを受けます。でも、物に執着しない考え方、人間関係に依拠しない生活(農耕を維持するためには共同体が必要)、何より地球のリズムとともにある生き方は、その日暮らしを原点に置くと何かが見えるのかもしれません。



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Richard G. Wilkinson著「経済発展の生態学 -貧困と進歩-」筑摩書房

 もし欠乏の基準というものが、収穫時に食糧を貯蔵して他の時期に備える必要があるか否か、ということであれば、われわれ自身が住んでいる社会は貧困に打ちひしがれているということになる。(略)「その日ぐらし」の生活の言外の意味がときとして正しくないときがある。狩猟・採取民にとっては、かつてエデンの園がそうであったように、「その日ぐらし」の生活はなにものにも代えがたいぜいたくなのである。同様な推論が、多くの経済学者が望ましいものと前提している資本余剰を「蓄積できない」農民社会にもしばしばあてはまるのである。
(66~67ページ)

 自然環境は、そのままにしておけば、植物相・動物相の「極相群集(クライマクス・コミュニティ)」とよばれるもの-たとえば世界中少なからず存在するかなり安定した自然林地帯-をつくり上げる。これらの動・植物種の自然群集のなかでは、自然に作り出されている有機的生産量全体のごくわずかしか人間が使えるような形態をとっていない。(略)野生の動植物だけに依存して生活している人々の人口密度は、狩猟・採取社会の間でそうであったように、非常に低くならざるをえなかったろう。
(120ページ)

 農業の開始は、狩猟・採取社会で達成された生態系の均衡が崩壊することから始まった。野生の動植物数が人間の欲求をみたすのに不充分となるにつれて、人々を扶養しつづけてゆくためには作物の人工的栽培ということが導入されねばならなかったのである。
(131ページ)

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by senang | 2006-01-25 21:11 | 【0】センシブルワールド
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