「子どもの居場所」より道草を奨励しよう
 純さんと小学校の統廃合の話をしていた時。「私ね、この町で学校が1校になったら残念だなぁと思うことがあるの。」と言いました。学校が遠くなるとスクールバスで登下校するようになり、道草ができなくなるからというのがその理由です。そして、「昔は、学校へ行くのは30分だけど、帰り道は2時間かけて帰ってきてたでしょ。その途中で、川にいるアヒルをいじめたり、草を抜いて食べてみたり。そういう体験って、大事だなぁって思うのね。」と続けます。
 僕達が子供の頃、身の回りのものを、ごく自然に、五感で感じていました。そこらへんにあるものを使って遊びを開発し、遊びの中に掟をみつけ、上級生と下級生の人間関係から社会のルールを学び取っていきました。

 今は、「子どもの居場所」と称して子供を集め、大人が引率して野山に出かける世の中。かつては当たり前に覚えていった野山での遊び方を、今は大人が手取り足取り教えています。子供自身がそれを望んでいるのかどうかもわかりません。ヘビやハチがいる山へ行くより、家でテレビゲームしてた方がマシだ...と思う子供もいることでしょう。
 確かに、最近の子供の生活においては、自然だけではなく、様々な環境に触れることが少なくなったと思います。朝、家を出て、知らない人と話しちゃダメだと指導されているために通学路沿線のおばちゃんに挨拶もせず、閉鎖された空間で閉鎖された教育を受け、放課後はどこにも寄らずに家へ帰ってくるという生活。スクールバスで登下校しなくても、道草や遊びの中から自然との関わり方や掟を学ぶことがほとんどありません。

 そうそう、昨年のことになりますが、「子どもの居場所」事業の展開に合わせ、学校関係者の研修会がありました。その講師をした折に、僕なりの提案をさせていただきました。居場所をつくるのなら、学校帰りに道草ができる場所、好きな時にフラリと立ち寄ることのできる場所、地域の人がいて遊びや知識を教えることのできる場所、誰でもワイワイガヤガヤできる場所をつくるべきだというのが提案の趣旨です。
 それに対して、「今の教育方針は、寄り道してはいけないということになっているので、そういう場所をつくることはできません。」と、先生らしき人に指摘されました。「だから、それを打破しましょう。」と申し上げましたが、「いえ、できません。」の一点張り。結局は平行線のままでした。

 感受性の高い子供の時期に、自然と触れることは大切だと思います。自分が考え、自分の手で触ったものの発見や驚きは忘れないでしょうし、草木を抜いたり動物を追いかけ回したりということについても、どこまでやっちゃっていいのかという限度を身体で覚えるでしょう。
 そのためには、道草が一番だと思うのです。つくられた場所ではなく、非現実の場所でもなく、通学という日常生活の延長線上で自然や社会を学ぶことができるところが良い点です。
 または、自分が食べる米や野菜くらいは自分でつくるというプログラムを子供の頃から実践するのも良いかもしれませんね。学校教育のカリキュラムに位置づけてもよいくらいだと思います。

 地球のリズムを感じることのできない子供が増えていることは、国も親も地域の人も感じているようですね。しかし、それを危惧するのであれば、わざわざ「子どもの居場所」なんてものを設置しなくても、みんなで力を合わせ、道草を堂々と奨励できる社会をつくる方が重要だと思います。あるいは、少しくらい学力が下がっても、田畑に出る時間を増やす方が、長い目で見れば日本社会にとってプラスになるはずです。
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by senang | 2005-11-27 21:45 | 【0】センシブルワールド
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